メッセージ(大谷孝志師)
ユダの裏切りと救い
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年3月27日
ルカ22:21-23「ユダの裏切りと救い」 牧師 大谷 孝志

 主は最後の晩餐の後「私を裏切る者の手が、私と共に食卓の上にある」と言いました。3節には、十二人の一人、つまり、イエス自身が任命し、彼らを使徒と呼んだ十二人の一人である「イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入った」とあります。サタンがユダに入り、彼を使って主イエスを裏切らせたのです。パウロはガラテヤ2:20で「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と言っています。私達が復活の主イエスが私の内にいると信じるなら、主が私に入ったと信じていることになります。では、その主と私の関係はどうなっているのでしょうか。私という人格が主に占領され、無くなっているのかというとそうではないでしょう。しかし、実際には私が自分の内に主がいないかのようにして、世に生きていることはないでしょうか。私が私の主であり、主は私の主になっていないのです。パウロは同じ2:20で「今私が肉において生きているのは、私を愛し、私の為にご自分を与えて下さった、神の御子に対する信仰によるのです」と続けています。だから彼は、キリストが私の内に生きていると言えたのだと思います。

 イスカリオテのユダは主と行動を共にしていた使徒の一人です。しかし、彼はサタンが内に入った時、サタンに自分を引き渡してしまったのです。次週聖日礼拝で、神はサタンが弟子達を麦のようにふるいに掛けるとの願いを聞き届けた事を通して学びます。神は全てを御心のままに行う方です。ここでも神は御心を行う為に、ユダがサタンに自分を任せることを許したのです。

 マルコ14:21で「人の子を裏切る者はわざわいです。そういう人は生まれてこなければよかった」とイエスは言っています。ユダはそれをしたくて生まれたのではないし、裏切りたくて裏切ったのでもないと思います。その時は、主が捕らえられ、十字架に付けて殺される道に向かわせるサタンのやりかたが良いと思ったのです。彼へのこの主の言葉は、断罪を意味していません。むしろ神が定めた道を選んだ彼への憐れみに満ちた言葉です。主も「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従った(ピリピ2:8)」からです。

 主はサタンが入ったユダに「あなたがしようとしていることを、すぐにしなさい」と言います。止めるどころかしなさいと命じたのです。ユダは主に与えられた「パン切れを受け取るとすぐに出て行った。時は夜(ヨハネ13:27-30)」でした。過越の食事も最後の晩餐と呼ばれるように夜、ゲッセマネの祈り、ユダが先導した人々による主の逮捕、ペテロの裏切りも夜でした。主が十字架に掛かって死ぬ前、大声で叫び、息を引き取る迄の三時間、全地が夜のように暗くなりました。この世が闇から光りの世界に変わる為に、主の十字架の死が、ユダの裏切りがなくてならぬものだったことを暗示しています。

 ユダは、主が死刑に定められたことを知り、後悔し、祭司長達から受け取った銀貨30枚を彼らに返えそうとしました。しかし、受け取って貰えず、自分の罪は自分で始末しろと言われ、銀貨を神殿に投げ入れ、首をつって死にました。使徒の働きには、彼はその金で地所を手に入れたのですが、悲惨な死を遂げたとだけ記されています。彼の死後については聖書には何も記されていません。私達には聖書の記事に想像を加えることは許されていません。

 しかし聖書は、神が御心を行う為に、ユダを使徒の一人として選び、主はそこに共にいるのに、サタンが彼に入るままにしたこと、主が彼に裏切れと命じたこを事実として記し、私達にそれが御心であると教えています。

 人は誰もが自分にしか歩めない人生を主の御手の内で生きているのです。主はペテロの信仰が無くならないように祈り、ユダに裏切れと命じました。御言葉通り主を三度否定したペテロを主は憐れみ、彼の涙を受け入れました。サタンの誘惑を受け入れ、御言葉に従い主を裏切り、御心を行ったユダも自分の人生を生きたのです。最後に非業の死を遂げた彼の人生も主の御手の内にあったのです。神の計画の実行者となった彼を、主は憐れみ救ったと私は信じます。主は人に御言葉を与え、その人を用いて御心を行わせる方です。

 ユダの絶望の先にも平安があります。私達が十字架と復活の主が共にいる世界に生きる為に神はユダを用いました。一人も滅びることなく全ての人が悔い改めに進む為にペテロを用いた神は、その道を開く為にユダを用いたのです。主が人を救う為に人をどう用いるか人には分かりません。御言葉を示されたら、それを行い、主の救いの業の為に自分を献げる者になりましょう。