メッセージ(大谷孝志師)

私の為に祈った主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年4月3日
聖書 ルカ22:31-34「私の為に祈った主」

 今日の個所は、最後の晩餐とゲッセマネの祈りの間に起きた出来事です。主イエスは最後の晩餐を終えた後、突然「わたしを裏切る者の手が、わたしと共に食卓の上にあります」と言います。すると弟子達は「自分たちのうちだれがそんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始め」ました。彼らは、三年近く神の国の福音を宣べ伝え、神が共にいることを言葉と行いで明らかにする主と、弟子として生活を共にしてきたのです。その主を裏切る者がいるとは、とても考えられないことでした。しかし驚くべきことに彼らは、自分達の内の誰かがするかも知れないと考えて、言葉を換えるなら、容疑者捜しを始めたのです。驚くのはそれだけではなかったのです。次に、「自分たちのうちでだれが一番偉いだろうか」という議論も始めたからです。

 ここで最後の晩餐の言葉を思い起こしましょう。主はパンを取り、、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて、『これは、あなたがたに与えられる、わたしのからだです』と言い、更に『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です』と言いました。これはその後の事なのです。弟子達は、主が「わたしはあなたがたの為にもうすぐ死にます」と言い、そうなるかもしれないのに、私を裏切る者がいると言ったのに、彼らは容疑者を捜し、誰が一番偉いかと議論を始めているのです。滑稽と言うしかありませんが、これが私達人間の現実、これが主イエスの十字架の死による贖いを必要とする人間の姿と、聖書は私達に教えています。

 人は変わる必要があるのです。主はシモン・ペテロに「サタンはあなたがたを、麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられた」と言います。これはヨブ記を思い起こさせますが、ヨブは最悪の状態に落とされました。しかし弟子達の場合は「ふるいにかける」ので、良いものを残し、悪いものを捨てることになります、全く違うと言えます。しかも主は「わたしはあなたの為に、あなたの信仰がなくならないように祈った」とペテロに言います。「あなたは自分の惨めな姿をこの後知ることになります。しかし安心しなさい。あなたは悔い改め、赦され、神と共に生きることになります」と教えたのです。私達は、自分の信仰がなくなると考えたことがあるでしょうか。私も、危機的状況に立たされたことは何度もあります。でも私は礼拝に出たくないと思ったことも、キリスト者であることを止めたいと思ったことはありません。しかし私はこの準備の中で、主が私の為に、私の信仰が無くならないように祈っていたからと知らされました。ペテロは「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟ができている」と言いました。私の場合は、今の自分が亡くなるという無の恐怖が強かったのを思い出します。主が共にいて、全てを知り、全てを助けるとの信仰が飛んでしまったのです。

 ペテロはこの後、主が「今日、鶏が鳴くまでにあなたは三度私を知らないと言う」と告げたように行動してしまいました。主はご自分が逮捕された後、彼がどうするかを既に知っていたのです。その彼の為に既に祈っていました。

 人が恐怖に陥るのは、先々の事を様々に想像して思い惑うからです。しかし主は既に知っていると聖書は教えます。この主が私達の主だから、主イエスを信じれば救われるのです。何故か。人には先の事は分かりません。でも、先に進むしかありません。しかし暗中模索なので、そこにあるのは、不安と恐れだけです。絶望し、自分を見失うこともあります。しかし神は、人を滅ぼす為に造り、生かしているのではありません。ですから聖書は、主イエスを信じなさいと教えます。主を信じる人は希望と持てます。主の愛を知るので、主に期待できます。そこに救いがあるから、主を信じればよいのです。

 マルコ9章に、霊に憑かれて苦しみ転げ回る我が子と自分の助けを求めた父の話があります。彼は「しかし、おできになるなら、私達を憐れんでお助け下さい」と言いました。彼は主イエスならできると思うから我が子を連れて来たのです。しかし将来の事が分からない彼は、そうとしか言えなかったのです。教会にも様々な悩みを抱える兄姉がいます。主を癒し主、助け主と信じる私達は、御心であれば、癒し助けると信じて、その人々の為に主に祈っています。この父親は主に癒しと助けを求めて主の所に来ました。でも主が不在だったので、弟子達にそれを願いました。彼らに出来なかったのです。彼はイエスにも出来ないかも知れないと思い、もし出来るならと主に願ったのでしょう。私達も過去の経験から主に出来ると信じ切れないことはないでしょうか。主はこの父親に「信じる者には、どんなことでもできる」と教えました。そして聖書は、その父親と主の言葉により、私達主イエスを信じる者は、自分も共にいる人々もこの信仰の世界に、主が支配し、主が全ての全てである世界に生きていると信じることが求められていると教えています。

 ペテロも、主と生活を共にする中で、自分達はその世界に生きていると信じていた筈です。だから「主よ、あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできています」と言えたのです。しかし主は、彼の思いが自分の思い込みに過ぎず、実は正反対の言動をすると知っていました。そして「今日鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言う」と言いました。彼は自分が主イエスへの信仰を無くした人になったと知ります。しかし、そうなる彼の為に主は祈っていたのです。それだけではありません。信仰を無くしても、無くしたままでなく、彼は立ち直れるのです。そしてその経験をした者として、他の弟子達を力付けることが出来ると主は言います。

 聖書は主イエスが人の全てを知ると教えています。その主イエスを信じ、礼拝する人は、その主がいつも、いつまでも共にいので、安心して生きられると教えます。確かに、彼は主が言った通り、その人を知らないと主との関係を三度否定しました。しかし彼は、振り向いた主に見詰められている自分を知りました。そして主の言葉を思い出し、外へ出て、激しく泣いたのです。
 主は私達の全てを知り、弱さを持つ私達の全てを主の愛で包み込み、新しい人として歩み出させて下さいます。主はどんな時も、どんな状態に私が置かれたとしても、自分を見失い、諦めそうになったとしても、私の為に既に祈っていると知りましょう。その主イエスを信じ、主と共に生きましょう。