メッセージ(大谷孝志師)

十字架へと歩む主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年4月10日
聖書 マルコ11:1-11「十字架へと歩む主」

 次週の礼拝は主イエスの死からの復活を祝い、感謝するイースターです。その前週である今日を、口語訳聖書のヨハネ12:13に、人々がシュロの枝を持って手に取り、エルサレムの町に入る主イエスを迎えたとあることから「シュロの聖日」と呼んでいます。実は、新改訳2017は「しゅろ」ではなく「なつめ椰子」と訳しています。でも、多くのプロテスタント教会では伝統的に「しゅろの聖日」と呼びます。しかし聖書のこの場面で、マタイの福音書は服と木の枝、同じくマルコは服と葉の付いた枝、ルカは服だけを道に敷いて主を迎えたと記すので「枝の聖日」と呼ぶルーテル派などの教派もあります。

 さて、多くの人々は何故、神を称えつつ、大歓迎で主イエスのエルサレム入りを迎でしょうか。ゼカリア9:9に「娘シオンよ喜べ。娘エルサレムよ喜べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って、雌ろばの子である、ろばに乗って」と預言されているからです。しかしこの人々は、新しい王が来たから喜び迎えただけではありません。続くゼカリア9:10に「戦車をエフライム(南北に分かれた後の北イスラエル)から、軍馬をエルサレムから絶えさせる。戦いの弓も断たれる。彼は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大河から地の果てに至る」とあり、主イエスがエルサレムに来たことにより、全世界に神の平和が実現し。強大な軍事力のローマの支配から解放される時が来たと信じたからです。

 主イエスが世界の支配者、王として来たのは確かです。しかし、どんな戦いの勝利者なのでしょうか。主の敵とは何なのでしょうか。主イエスは軍隊を率いてきたのではありません。敵を殺し、血を流すことも命じていません。主の弟子達や付いて来た人々は、元漁師や役人、庶民と呼ばれる普通の人々で、戦争とは無関係の人々です。それに、主に関わりを求めて来た人々の多くは、病や障碍に苦しむ人、虐げられ、疎外されていた人々です。主は友無き人の友となり、自分を必要とする人の友となった方です。何故その主が、凱旋将軍のように歓迎されたのでしょうか。人々がこの主の姿にゼカリヤの預言が実現したと思ったからです。主が以前にこの町に来た時は。歓迎されないどころか、主の方で王として担がれることを警戒し、身を隠しました。何故今回は、堂々と預言成就者の姿をして主はエルサレムに来たのでしょう。

 今日の個所の前、10:32以下を見ると、エルサレムに向かう主の姿に、弟子達は驚き、恐れたとあます。主はその彼らに最後の受難告知をしました。主は十字架の死が待つ町に向かうからです。その死は、人を支配する悪の力との戦いに勝利し、その束縛から人々が解放され、神の平和の喜びを得る為の死です。主は捕らえられ、殺されます。しかしその死こそ主の勝利の時であり、人々の喜びの時が待っているのです。だから主はろばに乗って来ました。エルサレムに入った主を迎えた人々は「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と叫びます。ローマの圧政に苦しんでいた人々は、主イエスの姿を見て、預言されていたダビデ王国再興の時が来たと喜んだからです。

 その数日後、主は捕らえられ、裁判にかけられました。ローマ総督ピラトは祭りの際、人々が願う囚人の一人を釈放していたので、彼が「ユダヤ人の王を釈放して欲しいのか」と聞くと、人々は「バラバを」と言います。では「イエスをどうして欲しいのか」聞くと「十字架に付けろ」と彼らは叫んだのです。祭司長達に扇動されたとは言え、主イエスへの態度は正反対です。彼らは預言を知り、その成就を期待し、何十年も何百年も期待し続けてきました。ですから主イエスが預言通り、ろばの子に乗ってエルサレムに来たのを見て感激し、大歓迎したのです。その人々が何故、イエスを十字架に付けろと叫んだのでしょう。期待していた主の惨めで無力な姿を見て、神が預言を成就するのは今ではないのかと諦め、今後もローマの圧政に呻めき続けなければならないのかと思い、抑えていた感情が爆発してしまったのでしょう。

 私達もですが、主を信じ求めていても、何故主は御心を行わないのですか、と呟き続けることはないでしょうか。しかし、主は私達の過去も現在も未来も全てをご存じで、私達が主を信じ、従い、求めるなら、私達に必要なことを必要な時にすると私達は信じています。しかし、主にいくら期待し、求めていも、神が与えられないことがあるのは事実です。それは、その理由が私達の内にあるからなのです。自分の主への姿勢に問題があったのです。もし、正しくない事を見つけたら、正しましょう。しかし、パウロですら「したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています(ローマ8:19)」と言います。自分にはとても正すのは無理、出来ないと思っても、諦める必要はありません。主は全ての人が神の子となり、神に恵みと平安を戴いて生きられるように、私達を古い自分ではなく、新しい自分として主が支配する新しい世界に生きる者とする方なのです。その為に十字架への道を歩まれたのです。

 主を預言通りダビデ王国を復興する方だと大歓迎で迎えた人々は、敗者に見えた主の姿に躓きました。しかし彼らが見たろばの子に乗ってきた主は、この世を神の国とする為に世に来た、神の独り子、救い主なのです。しかし、人々はエルサレムに来た時も、裁判に掛けられた時も、主イエスのその真の姿が見えなかったのです。主が、子ろばに乗って入って来たのは、全ての人が救われ、目には見えないが、この世が神が支配する世界だと実感でき、神の恵みと平安を戴き、生き生きと生きる者とする為でした。パウロが「私達は見えるものにではなく、見えないものに目を留めます(Ⅱコリント4:18」と言います。神は私達が「見えないものに目を留め」、この世が神の国と世の人々に知らせることを望んでいます。主は「御国を来たらせ給え」と祈れと教えます。御国は、天の軍勢が来てこの世を平定し、神が支配する御国にするのではありません。神が私達を用いて、神の恵みと平安が満ち、人々が安心し、希望を持って生きられる御国にして下さるのです。パウロはピリピ2:13で「あなたがたは、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子どもとなり、いのちの言葉をしっかりと握り、彼らの間で、世の光として輝くためです。」と言います。そのような私達とする為に、この日、主イエスは十字架の道を歩んだのです。