メッセージ(大谷孝志師)
終末を待ち望もう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年4月10日
Uペテロ3:8-13「終末を待ち望もう」 牧師 大谷 孝志

 2022年度を迎えた。ウクライナを始め、世界各地で戦争、紛争が起き、多くの人が塗炭の苦しみに喘いでいる。世の終わり近いと言う人もいるが、全ては主の定め、行っている事と信じ、自分に何ができるか、何をすべかを考えることが大切。

 聖書は、世の終わりが必ず来るので、その日を待ち望みつつ、その日に備えて生きよと教える。次週は主の復活を感謝し祝うイースター礼拝、主イエス・キリストは十字架に掛かって死んだが、復活し天に上った。そして目には見えないが、私達と今も共にいる。私の傍に、私の内に。そして世の終わりに見える姿で再び来る(使徒1:11)。この世はそれ迄の間の時。私達キリスト者が今生きているのは、自分や自分達の働きを通して一人でも多くの人々が救われる為。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなくすべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです(Uペテロ3:9)」。主が再臨する終わりの時が来れば、今の天と地が過ぎ去り、新しい天と地が現れ、聖なる都、新しいエルサレムが、神の御許から、天から下って来ると、黙示録21章に。

 この手紙が書かれた当時の人々は、直ぐ来ると言った主イエスや使徒達の言葉を信じ、主の再臨を待ち望んでいた。しかし再臨が来ないことで、当時の教会は大きな危機に立たされた。再臨がないなら、主イエスの言葉も使徒達の言葉も信用できないと教会を攻撃する人々が現れ、キリスト者達の中にもその考えに影響された人達が出てきたから。しかし二千年経った今も同じではないか。私達も本音ではこの世はいつまでもこのままなのではと思っていなか。終末もだが、主イエスの復活も、建前では信じていても、本音を言うと分からないと思ってしまうキリスト者が意外に多いのではないか。そこには「自分は罪人」の自覚が大きく関わっている。主の十字架の死の贖いがなければ、自分は罪と悪が支配する闇の中に生きる以外になかったとの自覚が明確かどうかの問題。更に言えば、肉体をもって生きている私達だが、罪に縛られている自分を見詰め「主よこんな惨めな私ですが、助けて下さい。あなたしかいないのです。」と叫んだことがあるか。

 聖霊についても同様。聖霊とその働きを信じないと言うキリスト者はいない。でも聖霊とは何かが分からずに信仰生活を送るキリスト者も以外に多いのでは。しかし私達はそれでもキリスト者として主を信じ、礼拝し、この世で生き続ける。主がこのような私達を深い愛をもって包み込み、憐れみと励ましと慰めを与え、ご自分の民、ご自分の体である教会の一つの枝として生きる者としているから。

 私達がどんな信仰の持ち主でいても、主の再臨、世の終わりは必ず来る。主は私達全てが完全にご自分のもの、神の民となり、天から降り来る神の都で永遠に生きる者となることを、全ての人を愛し、大切に思う主自身が望んでいるから。

 だからこの受難節の今、本音で主イエスの十字架の死と復活を、主の臨在を信じる者になろう。心から信じると、世の終わりが待ち遠しくなる。それだけでなく、世の終わりに、主を信じようとしない家族、友人知人が永遠の滅びに落とされない為に、主が十字架に掛かって死んだことが心に突き刺さる。私達がどう思おうとも世の終わりは来る。主が既に定めている計画だから。主が待っている今、世の人々に、福音を主イエスを信じれば救われ、世の終わりに滅ぼされず永遠に生きられると福音を伝えよう。そして皆と喜んで世の終わりが来るのを待とう。