メッセージ(大谷孝志師)

人の思いを遙かに超えて
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年4月17日
聖書 マルコ16:1-8「人の思いを遙かに超えて」

 主イエスは安息日の前日、金曜9:00に十字架に付けられました。そしてその日の15:00に息を引き取りました。共観福音書はアリマタヤのヨセフだけですが、ヨハネではニコデモが主の埋葬に加わっています。ユダヤでは死体を焼いたり、土に埋めず、岩穴に伸葬にしました。遺体が空気に触れる状態なので、香料を塗り亜麻布で巻いて異臭を防ぎました。アリマタヤのヨセフ達は夕方、安息日が始まる日没直前になっていたので、急ぎ岩を掘って造った新しい墓に当時のその風習通りに納め、入り口を大きな石で塞いだのでした。

 その埋葬後、女性達は自分達も主イエスの遺体に香油を塗り、主への尊敬、親愛の情を表したいと思い。香油を買いに行こうと思ったしょう。しかし、安息日は生きる為の必要最低限の事しか許されません。ですから香油を買いに行けなかったのです。マグダラのマリア、ヤコブの母マリアとサロメは、日没後、安息日が終わるのを待って香油を買い求めたのは、その為でした。

 早く主イエスの体に香油を塗って差し上げたいと思う彼女達は、早朝日の出を待って墓に行ったのです。しかし、彼女達は埋葬の様子を見ていたので、墓は非常に大きな石で塞がれていて、それを転がして中に入るのは、自分達には不可能と知っていた筈です。それでも彼女達は墓に向かったのです。彼女達は「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合ったと有ります。ある人は、これは彼女達が主の死に直面し、先の事を余り考えられず、他人への依存性、自分達の為に誰かがしてくれるとの思いが先に立ってしまったからだと言い、人は動揺すると、落ち着いているつもりでも、自分中心に物事を考えてしまう弱さを持つので気を付けようと言いました。

 しかし私は、彼女達の行動にキリスト者の信仰の本質的在り方が現れていると気付きました。彼女達は主に仕えたかったのです。主の傍に行きたかったのです。それを妨げるものがあるのは分かっていても、それを承知の上で、彼女達は行動を起こしているのです。確かに、しようと思っても目的を果たせない状況にありました。だからと言って、彼女達は諦めななかったのです。

 私はこの彼女達の言葉に、全く不可能で、自分達にはどうにもならない情況に置かれながらも、尚、希望を持ち続けて行動を起こす力強さを感じました。勿論、石が既に転がしてあるとは思ってもいなかった筈です。もしそうなら「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と言わなかったからです。ところが、墓に着いた彼女達が目を上げると、既に石は転がしてあったのです。聖書はこの事実を通して、私達が主を信じて行動を起こすなら、主に出来ない事はないので、求めるものが与えられると教えています。

 女性達が主の為に自分達にできることをしたいと思ったのと同じように、私達も、ただ教会に来ているだけ、礼拝に出て主を礼拝しているだけでなく、主の為に何かをしたいと思う時はないでしょうか。例えば教会の為や問題を抱えて悩み苦しんでいる人の為に、生活上必要なものがあるのにそれが無くて困ってる人の為に、自分に何かできないかと考えたことはないでしょうか。
 そんな時、あれこれをしたいと思っても仕事の事、家庭の事、或いは体力等の力量不足で、自分にはできないと思ってしまうことはないでしょうか。

 しかし主の復活の日のこの出来事により、主に喜ばれたい、主の為に何かしたい、この人にすれば主の為になると思ったら、やってみたらよい、と私達は教えられます。障碍が有ったとしても諦める必要はないのです。自分を考え込ませ、躊躇させる障碍は、決して絶対的なものではないからです。確かにその事や自分を見て、障害を乗り越えることはできない、無理と思うかもしれません。でも悲観的にならず、むしろ積極的に、それは主が私の信仰を試し、強め、成長させる為に与えた試練かもしれないと考えてみましょう。

 彼女達は大きな障害があるからと、自分達がしようと思った事を諦めませんでした。愛する掛け替えのない主です。その主の死を目の当たりにし、心は悲しみで一杯だった筈です。気持ちは落ち込み、精神的に決して良い状態ではなかったでしょう。しかし主の為にこれをしたいと思って行動を起こした時、自分達にはどうにもならないと思っていた障碍が、障碍でなくなっていたと知りました。これを私達も信仰生活の中で実際に経験している筈です。

 なぜなら、私達は主イエスが全てを支配し、全てを可能にする世界に生きているからです。主はこの福音書10:27でこう弟子達に言っているではありませんか。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」と。聖書は、私達が主の為に何かをしたいと思ったら、してごらんなさいと教えます。私達はその主を信じ礼拝しています。

 彼女達は墓の入り口を塞いでいた非常に大きな石が転がしてあるのを知り、半分はホッとしたものの、現実にはとても考えられないことなので、半分は恐る恐る墓に入ったと私は思います。私は今週の金曜日に、信仰を告白し、バプテスマを受けてちょうど60年になります。60年前はその日がイースターでした。皆さんも長い短いは有っても、それぞれ信仰生活を過ごしています。また、これからの方々もおられます。主を信じ主と共に生きる中で、主の素晴らしい恵みを体験した時、半信半疑だったという経験をした人もいると思います。私にもそんな経験が何度か有ります。彼女達が墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年がいました。それは御使いでした。彼女達は非常に驚きましたが、御使いは「あなたがたは、十字架に付けられたナザレ人イエスを探しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません」と言います。そして弟子達とペテロに伝えなさいと命じたのです。

 しかし、驚くべき体験をした彼女達は、震え上がり、その場から逃げ去ってしまいます。彼女達を非難できません。人は主が共にいると信じていても、主は見えないので、直面した事の恐ろしさに震え、気が動転する事もあるからです。しかしこれだけは覚えておきましょう。主は復活し、目に見えなくても、感じられなくても私達の心の内に事実共にいます。そして私達一人一人の人生の歩みの中で、人の思いを遙かに超え、障碍を取り除き、道を開いて下さっています。これかも主はそうして下さいます。その主と共に生きて行きましょう。私達も自分の人生の中で主の栄光を見る者になれるからです。