メッセージ(大谷孝志師)
苦しむ人への愛
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年4月17日
ヨブ4:1-9「苦しむ人への愛」 牧師 大谷 孝志

 私達は主イエスを信じ、主に依り頼んで生きている。主は目に見えないし、声も聞こえない。でも主の暖かさを感じている。福音書を読むと様々な人への主の暖かい心遣いを感じさせられるから。主は限りない優しさで人々に接している。特に姦淫の場で捕らえられてきた女性への「私もあなたに裁きをくださない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」は好きな言葉の一つ。彼女は言い逃れの出来ない罪を犯し、石打ちの刑に処せられても仕方のなかった。今後も罪を犯すかも知れない女性。その女性を暖かい愛で包み込み、優しく諭し、これからの人生に押し出している。その溢れるばかりの優しさに感動したから。

 ザアカイという取税人の頭に対してもそう。彼は取税人の頭。人々から罪人と蔑まれていた。しかし主はこの人の家の客となった。人々の怨嗟の声にお構いなしにもてなしを受けた。二人の罪人や取税人の他、主に近づいて来る人、主が近づく人の殆どが、当時は一人前の人間と認められなかった女性、子供達や医者に見放された病人。主は世の人が触るのも嫌、友達になど成りたくない人達の友達になった。中には重い皮膚病にかかり、どうしても町の中を通らなければならない時は、大声で叫びながら歩かなくは成らない人に近づき、手を触れて癒しもした。勿論、主イエスも嘆いたり、叱ったり、或いは泣いたり、怒りを発したことも。しかし、主は決して相手を見捨てたり、切り捨てたりせず、愛で包み込み、自分を必要とする人を拒まない。ゲッセマネで自分を裏切ったユダの接吻さえ受けた。

 今日の個所のエリファズは、友人ヨブの余りの惨状に深く悲しんだ。しかし、彼の苦しみは彼自身の罪の故としか考えられず、自分の罪を決して認めようとしない彼に怒りすら感じた。自分の罪を認めさせることが彼自身の為だと思った。聖書を読めば、彼はヨブに間違ったことを言ってはいないことが良く分かる。しかしその言葉がヨブの心を打つことなく、騒がしい饒鉢のようにしか響かない。彼はヨブと同じ所に立っていない。間違ってはいないが、上に立って、彼を裁いているだけだから。自分では正しいと思っても正しくない場合があると気付こう。

 6章以下にヨブの言葉が。彼の叫びは悲痛。だが真理を必死に求める叫び。しかし、友の言葉にそれが感じられない。何故か。彼の心にヨブへの慈しみがないから。5章を見ると彼は見事な程自分を神の側に置いている。ヨブのように厳しく自分を神の御前に跪かせていない。だからエリファズの言葉は空しく響くだけ。

 私達は人の苦しみを見てどんな感情を抱くか。相手が、障碍を持つ人、仕事のない人、精神的に不安定な人、何をしてもうまくいかず苦しむ人などで有れば、同情し、解決策を相手に教えようとする。しかし相手にすれば「あんたは良いよ。私と違う世界に生きているから」という反応しか持てない場合が多いのでは。

 必要なのは、苦しんでいる人の孤独、その人のどうしようもない無力さを感じ取ろうとすること、相手と同じ所に立とうとすることと私は思う。私達も、彼のように同じ神を信じる兄姉の苦しみを知ることがある。相手に何かして上げたいと思うなら、彼のように、相手の信仰が正しいかどうかを心の片隅でも考えてはいけない。心から主に祈ったらと口に出したり、本当に信じているのとかと心の中で思ってもいけない。自分も相手も主イエスの愛が無ければどうしようもないと自覚して相手に接することが大切。一緒に主の前に跪き、自分達に主の愛と憐れみを求めること、そこに苦しむ人への愛があると言える。