メッセージ(大谷孝志師)

私の主、私の神よ
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年4月24日
聖書 ヨハネ20:19-29「私の主、私の神よ」

 主イエスは十字架に掛かって死に、三日後に復活しました。私達の日数の数え方では金曜の三日後は月曜です。しかしユダヤでは最初の日の日没までが一日目で、翌日の日没までが二日目、翌日の日没に三日目が始まるので、週の初めの日の早朝は三日目になるからです。今週はその日の夕方と一週間後の日の出来事を通して、私達にとっても主イエスはどんな方かを学びます。

 弟子達は主イエスと生活を共にし、何度も受難と復活について聞いていました。しかしその弟子達は、ユダヤ人を恐れ、家の戸に鍵を掛け、閉じ籠もっていのです。主の復活を簡単には信じられなかったからです。しかし彼らは、その前にマグダラのマリアから「私は主を見ました」と聞いただけでなく、自分達への伝言も聞いていたのです。しかしマルコ16:11を見ると、彼らはその報告を聞いても信じなかったとあります。彼らが嘆き悲しんで泣いていたとあるので、主の十字架の死の衝撃がいかに大きかったかが分かります。12節にも、主が彼らの田舎エマオに帰る途中の二人の弟子に現れ、彼らの不信仰を叱ったとあります。主イエスは確かに復活しました。これは事実です。

 弟子達は生前の主に復活すると知らされています。復活の主に出会ったマグダラのマリアからも主の復活を知らされました。でも信じられなかったのです。死者が復活するとは世の常識を遙かに超えた事なのです。でもそれが事実起きたと聖書は記しています。事実起きたからこそ、使徒達が主の証人として福音を告げ知らせ、エルサレムだけでなく、あらゆる国の人々が主イエスを信じて救われ、世界各地に教会が誕生していったのです。

 主が復活した日の弟子達は、まだユダヤ人を恐れ、戸に鍵を掛けて家に閉じ籠もっていました。生前の主イエスが宣べ伝えた神の福音は多くの人々の心を捉えていました。主イエスは愛の人。恐れや不安の中に生きる人々を心身共に癒やし、自分の力で生きられるよう助けていました。神が共にいて働いたからです。しかし当時の宗教指導者達は、その人々の喜びよりも、自分達の立場危うくなることを恐れました。それだけではありません。主に自分達の信仰が形骸化している現実を鋭く指摘され、恐れに妬みと反感が加わり、イエスに殺意を抱きました。そしてロ-マのシリア総督ピラトの力を借りて、イエスを重罪人として十字架刑で抹殺したのです。その主の仲間であることが自分達を危機的状況に置いていると知り、彼らは恐れたのです。彼らには、主が死から復活した世界でなく、十字架で死んだままの世界だったのです。

 私達もイエスを主と信じています。でも私の主だけでな、十字架と復活により、私が生きる世界の主として全てを支配し、治める主と信じているでしょうか。弟子達は変わりました。彼らは自分達の主、自分達の神が支配している世界に生きていると知ったからです。それを知ると私達も変われます。

 ユダヤ人を恐れていた弟子達は、家に鍵を掛けて閉じ籠もっていました。自分達が犯罪者イエスの仲間見られていたからです。しかし家に閉じ籠もっていては福音を宣べ伝えられません。誰も福音を聞いて主を信じられません。

宣べ伝える人がいなければ、誰も福音を聞けないし、主イエスを信じて、救われません。世の人々が救われる為には、彼らが自分達が思っている世界とは違う世界に今生きているかを知る必要がありました。それを知らせる為に主は彼らの所に来たのです。主はその家に入り、彼らの真ん中に立ちました。彼らは主が捕らえられた時、主を見捨てて逃げ去ってしまいました。しかしその彼らを主は見捨てず、彼らの所に来ました。彼らが必要だからです。

 私達もこの世にキリスト者として、教会の一員として生きています。でも時に逃げ出したい、教会を離れたいと思った人がいるかも知れません。もし逃げ出したとすれば、それは、自分の為に十字架に掛かって死んだ主イエスを見捨てて逃げ出すことになったのではないでしょうか。しかし今私達は、その主イエス礼拝しているのです。主が私達一人一人を必要としていたからです。主は私達の家族、友人知人の為に命を捨てて下さいました。その人々が神の子となり、神の恵みと平安の中に生きる為です。それがその人人にもでも可能だと知らせる為に私達が必要だからなのです。主はこの世の中に埋もれていた私達の為に、主の証人を遣わし、救い、主を信じる素晴らしさ、主が共にいる人生の素晴らしさを味わわせたから、私達は今ここにいます。

 主は家に閉じ籠もっていた彼らに「平安があるように」と言い、十字架の傷跡を見せました。十字架に掛かって死んだが復活し私だと示したのです。素晴らしいことです。彼らはその主を見て喜びました。しかし、彼らは変われませんでした。八日後も戸に鍵を掛けた家にいたからです。前回いなかったトマスも居ました。彼は八日前、主に会ったと喜んでいた彼らに、自分は十字架の釘後に指や手を入れて、確認しなければ、死んだ主イエスが復活したとは決して信じないと言いました。確かに、主が復活して共にいることは世の常識を越えた事、考えられないことです。主はその彼に自分の手と指で確認せよと言います。彼が「信じない者ではなく、信じる者となる為」です。トマスも他の弟子達も主が復活して目の前にいると信じました。私達も主イエスを信じています。主が私達が信じる者となる為に、今も生きて共にいることを示しましたからです。彼も他の弟子達も主を見たから信じのは確かです。しかし、私達は主を見てはいません。でも見えない主が自分と共にいるとと信じました。ですから先週主の復活を祝い、共にいる主を礼拝しました。

 主イエスはトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸い」と言いました。私達はどうして見ないで信じられたのでしょうか。教会に来て礼拝に出て、福音を聞いた時、見えない主が目の前にいるのを感じたのです。そして、それ迄の自分を捨て、全てを主に委ねることしか、自分に生きる道がないと感じたからではないでしょうか。。トマスは目の前のイエスは生前生活を共にしていた方とは違うと感じ取りました。そして「私の主、私の神よ」と答えました。彼は自分がこの主が全てを支配し、御心のままに全てを行う方と信じたのです。私達も信じている主イエスを、遠くから見詰めているだけの思いでなく、彼のように、自分の目の前にいる主イエスを「私の神、私の主」と呼び掛け、礼拝する者と成りましょう。