メッセージ(大谷孝志師)

見えないが共にいる主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年5月1日
聖書 ルカ24:13-35「見えないが共にいる主」

 「弟子たちのうちの二人」は、「エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって」と33節にあるので、その仲間の中の二人と考えられます。しかし彼らは、主イエスが復活したとの知らせを聞いたにもかかわらず、使徒達とその仲間を離れて自分達の故郷に帰ろうとしていました。主から離れようとしたことになります。香料を塗りに主の所に行こうとした女性達とは正に対照的です。彼らはナザレ人イエスのことについて語り合い、論じ合っていました。そこに復活した主イエスが近づいて来て、彼らと共に歩き始めたのです。でも、彼らはにそれが誰か分かりませんでした。私達は今、主を礼拝しています。目に見えないけれど。主がここにいると信じるからです。しかし本当にここにいると思っているでしょうか。もしそうなら、世の様々な事を考えず、見えない主に目を注いでいる、私を通して語り掛けている主の言葉に耳を傾けている筈です。もし牧師が自分で考えた事を話していると思っていたら、共に歩いている人が主だと分からなかった二人と大した違いはありません。ここは誰かの講演会場ではありません。礼拝堂です。主が語り、その主と共にいると信じなければ、私達がここにいる意味はありません。

 二人の弟子は、主にその話は何の事かと聞かれ、暗い顔をして立ち止まりました。彼らは、この人がエルサレムに滞在していたと知っていたようです。イエスが十字架で殺された事は都中の人が知る大事件でした。彼らは、それなのにあなたは知らないのかと、その人を小馬鹿にしています。しかし、自分達が主イエスについて語り合い、論じ合うことで、相手に興味を持たせ、彼らが主について説明する切っ掛けを得たことが重要なのです。それが彼ら自身の新たな主イエスとの出会いに繋がることになったからです。私達の周囲にイエス・キリストの十字架の死を知らない人は多分いないと思います。しかし、その事に関心を持ち、聞きたいと思っている人はいるでしょうか。

 二人は、神が福音を語らせ、自分が共にいることを示したその主イエスを、ユダヤの指導者達が十字架に付けて殺させた理由とその主が確かに死んだけれども復活し、その主と出会ったと女性達が言ったけれど、それが真実かどうかについて論じ合っていたのです。私達は、主の復活と臨在が真実かと論じ合う程自分に決定的意味を持っているでしょうか。彼らにとって主は生活の一部以上、生活の全てが主に懸かっていたのです。主イエスが人生の全て、主の喪失は人生の喪失だったのです。ですから彼らは無気力になりエマオに逃げ出そうとしていたのです。やはり、主はその彼らを見捨てませんでした。主は彼らを新しい人生に導く為、彼らに近づいて来て、共に歩いたのです。信仰の喪失感に陥いる時は誰にもあります。陥ったとしても、がっかりしなくてよいのです。主はその時を用いて福音を、御心を再確認させ、新しい人生に導く方だからと、今日の個所は教えています。これが自分にとって新生の恵みが与えられる為の時と気付く経験をした人もいるのではと思います。主は私達が生き生きとした信仰の持ち主となるよう常に働き掛けています。

 さて、二人の弟子は主の弟子なので、主が復活すると聞いていました。それに、マリアから復活の主に出会ったとの報告も聞きました。彼らは何故信じなかったのでしょう。理由の一つは自分達が目撃していないからです。「百聞は一見にしかず」と言うように、人は聞いただけではなかなか信じられません。またマタイ28:17には、ガリラヤの山で復活の主に会った弟子達の中に疑う者がいたとあります。見ただけでも信じられないのです。余りに不思議な事に出会うと「我が目を疑う」からです。ヨハネ21章では、ティベリア湖で夜通し漁をしたが何も捕れなかった弟子達に主が姿を現しました。その時、彼らは岸辺の主と会話し、主が命じた通りに行動します。夥しい魚が捕れたのですが、ペテロはヨハネに「主だ」と言われる迄、主イエスと分からなかったのです。二人の弟子も、主と近くで対話しても分かりませんでした。しかし16節に「目は遮られていて」とあり、それが御心と聖書は教えます。

 彼らは生前の主の活動の様子を身近に見、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者と認めています。彼らはそれらを自分達が見聞きしたので事実と認めています。私達は主イエスが十字架に掛かって死んだが、復活し、今、私達と共にいることを事実と認めています。私達はその事の目撃者ではありませんが、事実と認めています。二人の弟子は、女性達から御使いの目撃証言を聞きました。仲間の弟子達の空虚な墓確認証言も聞きました。ですから彼らにとって、主が復活したことも否定できない事実だった筈です。でも、彼らは使徒集団がいるエルサレムを離れ、故郷に逃げ込もうとしました。だから、主が彼らの所に来たのです。彼らが「信じない者ではなく、信じる者(ヨハネ20:27)」になる為です。十字架の主が復活し、新しい時が始まっていることを世の人々に伝える人、主の証人が必要だからです。

 私達はイエスを主キリストを信じています。主は十字架に掛かって死んだが、復活し、今も万物の主として全てを支配し、御心行っていると信じています。でも、私達も主の出来事の目撃者ではありません。見聞きしていないからです。ですから、二人が主が共にいるのに分からなかったように、主が私と共に生きているのが分からないと思ってしまったことはないでしょうか。彼らは主の復活を信じました。二人は主がパンを渡された時、目が開かれ、イエスと分かったからではありません。彼らは共にいる人が聖書を解き明かした間、心が内に燃えていたからです。その時、彼らの心の内に御子の霊が働いていたと気付かされました。私達は礼拝や集会だけでなく、この世での生活の中で、聖書を読み、祈り、共にいる主を思う時を待つことがあるでしょう。今もそれらの時も、主との交わりの時、聖なる時、特別な時なのです。

 彼らは初めはその人の声を人の声としか聞けませんでした。私達も聖書の説き明かしや証を人の声としか聞いていないことはないでしょうか。私達は主の体なる教会の一部です。。主は一人一人と、私と共にいます。だから私達は主を礼拝しているのです。彼らは主との霊的交わりの中で、主は復活し、今も生きて働くと分かったのです。その主は今も生きてここに共にいます。私達も主の復活と臨在をしっかりと信じましょう。主は確かにここにいます。