メッセージ(大谷孝志師)
ピラトと私達
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年5月1日
ヨハネ19:6-12「ピラトと私達」 牧師 大谷 孝志

 ピラトはローマ属州ユダヤの総督としてユダヤ、サマリア、イドマヤ地方を紀元26-36年に渡って治めた。聖書からは優柔不断な印象を受けるが、彼は断固たる生き方をした。ローマ皇帝の為に忠実に職務を遂行し、就任直後、エルサレムに皇帝像の付いた軍旗を持ち込み、神殿の財宝の売却によって得た金で水道を建設したりと、皇帝の為に忠実に職務を遂行して実績を上げた。それ故、彼とユダヤ人の関係はかなり険悪なものに成っていた。彼はシリア総督の配下ではあったが、地域内の事についてはかなり自由な権力を与えられていた。イエスを釈放するか死刑にするかの決定は彼に委ねられていた。しかしピラトは「おまえたちがこの人を引き取り、自分達の律法に従って裁くがよい」と言う。これに対し、彼らは「私達は誰も死刑にすることが許されてはいません。」と言う。しかし律法には死刑が定められているし、ユダヤ人議会は宗教上の事柄について死にあたる罪を犯した人を死刑にする権限を持っていた。では何故、彼らはイエスを彼に告発したのか。彼らには民衆を納得させられる明確な律法違反を立証できなかったから。

 しかしピラトはイエスを尋問したが、彼れの訴えが正当なものと考えられず、釈放したいと思い、過越の祭に一人を釈放する慣わしを持ち出し、最後まで釈放しようと努力はしている。しかしヨハネでは、ピラトは面と向かってかなり長くエスと話をした。その中で主は彼に、自分が何者かをはっきり告げたが、彼は「見るには見るが知ることはなく、聞くには聞くが悟ることはなかった」(マルコ4:12)私達も聖書も読み、祈ってはいる。しかし主が私達に自分は何者かを告げ、真理を教えていると気付かずにいたら、ピラトと同じ事をしている。主が自分に何を語り掛けているかを聞き取れるよう、心を鎮めて聖書を読み、祈る者となろう。

 しかしピラトは、主に「私は真理について証する為に来た」と言われたが、「真理とは何なのか」と言って問答を中断し、ユダヤ人達の所に行く。信じることは、世の常識や理性を超えること。ただ相手の言葉、考えを受け入れること。だから、人の素晴らしい証を聞いても、「へぇ〜、そう」と聞き流したり、「信じられない」と思ってしまうことがあるのでは。信仰を客観的に見てしまうと主が明らかにしている真実を見逃し、御業に示されている真実を味わえる機会を逃すこともある。

 ピラトは初め、イエスから「私の国この世のものではない」と聞き。超自然的存在かと恐れ、更にユダヤ人から「イエスが自分を神の子とした」と聞き、イエスが死後自分に祟る恐ろしい方ではないかと思い込み、益々恐れた。更に対話を続ける中で、イエスに底知れぬ権威を感じ、釈放し、自分から引き離すことで安心しようとした。しかしユダヤ人達に「この人を釈放するなら、この人は自分をユダヤの王を自称しているのだから、あなたは皇帝の友ではない。反逆者になる」と脅され、十字架に付ける為に、主イエスを彼らに引き渡した。彼は主イエスをこういう方に違いないと自分で決め付けて恐れ、また自分の思い込み通りにすると、自分の地位と名誉が奪われると恐れた。人が抱く恐怖の多くは自分の思い込み、推測や想像の産物の場合が多いのでは。人は自分が見聞きするものに頼り、それに支配され、不必要な重荷を負うことが多い。先ず、聖書を読み、祈り、自分の心に響く主のみ言葉を聞き取ろう。主は私達を愛し、恵みと平安を与える。見聞きするこの世の事に流されずに、先ず神の国と神の義を求めよと言う主に全てを委ねよう。真の平安を味わい、心配せずに安心してこの世に生きられるから。