メッセージ(大谷孝志師)

真の礼拝をする者に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年5月8日
聖書 ヨハネ4:5-24「真の礼拝をする者に」

 主イエスは、旅の疲れからサマリアの町のスカルという井戸の傍らにただ座っていたとあります。福音書の主は、病人を手で触ったり、言葉を掛けるだけで癒やしたり、湖の上を歩いて来たり、見ている人や遠くにいる人がどんな思いでそれをしたかを知っています。そんな主を思う時、私達は神の力に満たされた普通の人間とは違う超人的存在を思ってしまわないでしょうか。

 しかし聖書は、主も旅の疲れを覚えていたと教えます。確かに、主イエスは100%神ですが、同時に100%人間なのです。主も疲れるのです。私達と同じ人間だからです。ですから、私達の罪を取り除く為に十字架上で味わった、私達人間と同じ主の痛みと苦しみを思うと、主の深い愛と憐れみが心に迫ってくるのを私は感じました。このスカルの井戸辺にいる主に、人間としての疲れが滲み出ています。しかしそれは長旅の疲れだけではありません。主は三十歳半ばで神の国の福音を人々に宣べ伝える生活に入りました。後に「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところも」ないと主が言うように過酷な毎日でした。また、追い出されたり、崖の縁まで連れて行かれて突き落とされそうになったことさえありました。真の神を知らない人々に福音を伝える働きは、世の人々を捕らえて、神の愛を拒否させようとしている悪の力との戦いなので、気力と体力を使う大変な仕事だったのです。今夕の礼拝で「種が蒔かれた四つの土地の譬え話」を通して学びますが、それは主の経験から出た譬え話でもあります。福音を聞いても受け入れないので悪魔に取り去られる人、一時の感謝で終わってしまう人、思い煩いや富の誘惑に負ける人が大勢いたからです。私も60年の信仰生活の中で、そのような人々との出会いを、度々経験させられてきました。しかし、スカルの井戸辺で疲れ覚えて座っていた主が、そこに来た女性と対話し、自分がキリストであると教えたのです。主イエスは、父なる神と祈りにより常に交わりを保ち、霊的活力を与えられていたからです。ですからスカルの井戸辺での主に、人々を支配する悪の力との戦いの凄まじさを知ると共に、私達も福音を伝えるなら、尽きぬ力が主の為に働く私達にも与えられると教えられます。

 主は正午頃水を汲みに来た女性に「水を飲ませて」と言います。主も人であり、水を必要としたからです。主は水を汲んで自分に与える人を待っていました。主が肉の体で生きていたからだけではありません。私達が行う福音宣教は、主に水を汲んで差し上げることとなのだと聖書は暗示します。主は今も、人々の悩み苦しみを自分の身に引き受け、その人々と共に苦しんで下さっています。福音宣教は悩み苦しむ人々に、私達が具体的に自分の力と時間を献げて仕えることでもあるのです。主は、その人々を救う為に今も働いています。私達が主の手足、目や口となってその人々を助けることが教会の働きなのです。主は彼女を必要としたように私達の働きを必要としています。

 さて、サマリアの女性はユダヤ人のイエスに水を飲ませてと頼まれて驚き、理由を尋ねました。サマリア人はユダヤ人と数百年前から、宗教的、政治的に違う民族になっていたので、ユダヤ人はサマリア人と付き合わなかったからです。彼女が不審に思ったのは、それだけではありません。ラビ(ユダヤ教教師)が女性に話し掛けることはなかったからです。何故主はその彼女に話し掛け、頼んだのでしょうか。それは、彼らも同じイスラエルの民であり、同じ神の民だからです。彼らも神が遣わすと預言していたキリスト・メシアの到来を待ち望んでいました。主は人を差別せずに人に関わり、救う方なのです。主は今も尚、宗教的、政治的違いを超え、全ての人を自分の所に招いています。ですから、主はガリラヤに行くのに、ユダヤ人が普段使うヨルダン川沿いの道ではなく、サマリアを通る道を選んだのです。彼らをも救う為にです。

 彼女は正午という暑い盛りに水を汲みに来ました。人々は水を汲むのにこの時間帯を避けるので、彼女が人目を避けて生きていたことが分かります。しかしその彼女が、主イエスと出会い、水を汲む為に持って来た水瓶を置いて、町へ行き、自分を避け自分も避けていた人々に、キリストと思える人に会ったと知らせたのです。それまで知らなかった真理を彼女は主に知らされ、変えられたからです。彼女はヤコブの井戸と呼ばれる井戸の水を汲みに来ました。その水は飲んでも時が経てば渇きます。この水は、世の有れば安心すると人が思っている様々なものを象徴しています。形有る物は壊れます。「何時迄もあると思うな親と金」という諺のようにお金は使えば無くなり、「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と漢詩にあるように人も変わります。変わらないのは私達が信じているイエス・キリストです(ヘブル13:8)。

 主は彼女に、私はこの水をではなく、生ける水を与えられると言います。この地方で言う「生ける水」は地下水道の水を指します。澱まずに絶えず流れ、常に新鮮な水です。しかし主が与える「生ける水」はそれ以上の水です。その人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出る水なのです。その水には人の人生を大きく変える力があります。主が復活した日の弟子達は、ユダヤ人を恐れて身を隠しましたが、主の証人となり、全世界に福音を伝えました。彼女も自分の夫のことで人目を避けていましたが、目の前の人が自分の全てを知ると知り、神の言葉を告げる預言者、真理を教える方と信じ、町の人にその方を知らせました。弟子達も彼女も主が与える生ける水を飲んだのです。その水がその人々の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出たからです。

 彼女は主イエス・キリストに会えてことで、生ける水を飲め、幸せな人になりました。真理を教える人と出会えたからです。主は彼女に、全ての人が同じ神を御霊と真理によって礼拝する時が来ると教えました。世界は今、コロナと戦争と内戦で混迷し、悲惨な情況の中に有ります。でも平和と安心に

満ちた世に生きられます。主が「真の礼拝者達が、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です」と言うからです。皆が喜んで同じ真の神を礼拝するなら、誰もが、安心して共に生きられるのです。人は幸せに生きられるのです。これが私達が信じ、伝えている福音です。皆が御霊に導かれて主を信じ従えばそうなるからです。私達が先ず真の礼拝をする者になり、この真理を人々に伝えましょう。神の平和が今、この世に実現する為に。