メッセージ(大谷孝志師)

いつも喜べる私達に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年5月15日
聖書 ピリピ4:4-9「いつも喜べる私達に」

 このピリピ人への手紙は別名「喜びの手紙」と呼ばれます。僅か4章のこの手紙に「喜び」とか「喜ぶ」という言葉が16回も使われているからです。今日の個所でもパウロは「いつも主にあって喜びなさい」と言います。Ⅰテサロニケ5:16でも「いつも喜んでいなさい」と言います。黙示録に、人は死ねば「その労苦から解き放たれて安らぐことができる(14:13)」「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない(21:4)」とあるように、信仰生活の中で私達は様々な喜びを経験しているのは事実です。しかし、世に生きている限りは、いつも喜んでばかりいられないのが現実ではないでしょうか。でも彼は「いつも喜んでいなさい」と命じます。何故でしょうか。彼自身がいつも喜んでいたからです。その素晴らしさを知るだけでなく、それがだれにでも可能になると知るから、命じたのだと私は思います。だからこそ彼は、3:17で「私に倣う者になってください」と言ったのです。自分のようにいつも喜んで生きて欲しい、主イエスを信じるなら喜んで生きられるのです、と彼は教えます。

 彼は「もう一度言います。喜びなさい」と繰り返します。それはこれがとても大切なことだからです。私達がいつも喜んでいることに困難を感じるように、彼も困難を感じる状況に数多く直面したことが、Ⅱコリント11章に記されています。そしてこの手紙を書いている今も、投獄され、獄中にいます。それだけではありません。自分への妬みや競争心を露わにする人々、自分を苦しめている人々もいました。。しかし彼はその事を喜んでいます。また、同労者であり戦友のエパフロデトが病気になり、深い悲しみも経験もしました。ですから私達は、その彼に溢れるばかりの喜びを感じ、力を与えられます。

 彼はここでは「主にあって」を付けています。これが、彼がいつも喜んでいられる状況にいた訳ではないのに、いつも喜んでいられた秘訣です。彼にそれができたのは「主は近い」からです。「近い」には二つの意味があります。一つは距離的近さです。彼はいつも復活と臨在の主との生きた人格的交わりを持っていました。彼はいつも主を身近に感じていたのです。しかし、世に生きている限り、相手に自分の寛容を示せないこともあるし、思い煩わずにいられない時もあります。どうしても主にではなく、相手の人に目が、思いが行ってしまうからです。しかし、私達は相手に自分の寛容を示せるし、煩わずにいられると彼は言います。どんな場合でも「感謝を持って捧げる祈りと願いによって私達の願い事を神に知って頂けるからです。主は近くにいて私達の全てを知る方と信じる私達の強みがここにあります。先ず私達がすべき事は、主が近くにいる方と信じることなのです。今どんなに喜べないこと、寛容でいれられないこと、思い煩うことがあっても大丈夫なのです。それに加えてもう一つの強みがあります。主が見える姿で再臨し、この世が終わる時が必ず来ると信じているからです。今の状態を主が必ず終わらせると信じられるのです。だから希望を持てます。安心し今を耐える力が湧いてきます。

 そうして、神が私の思いと願いを知っていると信じるなら、全ての理解を超えた神の平安が、私達には思いも付かない神の平安が私達を守るのです。私達の心と思いを、十字架と復活の主、臨在の主であるキリスト・イエスにあって、御子の思いを知る父なる神が守ってくれるからですと彼は教えます。

 パウロは、次にギリシア世界、教会の外の世界でもで大切にされていた徳目を挙げ、これらの事に心に留めよと言います。「開かれた教会」であることが大切なのは確かです。玄関の扉を開けておき、常に誰でも入れるようにしておけば実現できるのではありません。それでは消極的受け身の解放に過ぎないからです。彼は積極的、能動的解放が大切と教えます。教会の中にいる私達が外にいる世の人々に心を開いていくことが大切なのです。それでこそ、この地に建てられた私達の教会が果たすべき使命と役割が果たせるからです。

 パウロがここに挙げている真実な事、尊ぶべき事、正しい事、清い事、愛すべき事(人に喜ばれる事)、評判の良い事、徳とされる事、称賛される事は、信仰的要素も入りますが、教会外の人々もこの世の常識で良いと判断する事です。だから単に「良いな」と思えではなく「心に留めよ」と彼は言います。

 教会がここに建てられているのは、世の人々に福音を伝え、人々が主イエスを信じて救われる為です。この世に埋没してしまっては駄目ですが、世から浮き上がったり、敷居が高いと感じさせてしまっては駄目なのです。その為には世の中の事を注意深く観察し、世の人々がキリスト者の価値観、人生観に違和感を感じないで、安心して教会に行ってみようと思うようにすることが大事だと言えます。自分もこのように生きたいと思わせるものが教会に、私達の生き方に見えれば良いのです。世の人々が美徳と感じるものを無意味、無効と避けていたら、壁ができるだけです。ですから、私達キリスト者には、世の人に勝って生きる豊かな力を与えられていることを思い起こしましょう。山室軍平や賀川豊彦、シュバイツアーやマザーテレサ等の社会の変革、変貌に大きな影響を与え、その思いを実践した人々がいます。そこ迄は行かなくても、主のように生きて、世の人々が良いなと思える教会を目指しましょう。

 しかし私達は普通の人間です。弱さも欠点もあります。しかし忘れてはいけないのは、主に証人として召されたから教会にいることです。私達は召しに相応しく生きる為にここにいるのです。私達も力強く生きられます。その為にはどうしたら良いのでしょうか。パウロは「私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい」と言います。8節では、この世の人が良いと思う事を心に留めなさいと言いましたが、行えとは言いません。この世の人に倣うものではないからです。3:17でパウロが言うように、彼に倣えば良いのです。パウロの手紙を始め聖書を通して主が知らせている事を、或いは謙遜、謙虚な思いで他のキリスト者を見て、その人を通して主が私達に知らせている事を私達が行えば良いのです。そうすれば私達と共にいる平和の神が私達を守り導き、必要な時に必要な助けを与えます。そして、私達は主の証人としてこの世で生き生きと生きる信仰者になれます。主は御業を行う為の働き人を求めています。主が必要とするから私達はここにいます。