メッセージ(大谷孝志師)
信じられることは幸い
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年5月22日
ルカ1:39-45「信じられることは幸い」 牧師 大谷 孝志

 エレミヤ29:11に「わたし自身、あなたがたのために立ている計画をよく知っている。…それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるもの」とある。しかし、神はご自身の計画をその人が当惑するかどうかにお構いなく知らせることがある。それが思ってもみない事だと当然当惑する。何故当惑するのかと言えば、自分の考えで判断しようとしたり、自分の計画や生き方に執着してしまうから。マリアも初めは当惑した。しかし彼女の信仰が当惑を乗り越えさせた。信仰とはこの世の常識では有り得ないとしか思えない事を確かだと思うこと。御使いガブリエルが言ったからではない。御使いがそうなると言ったが、それ自体に何の保証もない。彼女は正に見ないで信じる者になった。告げられた事実、それは自分の人生を大きく変えてしまうものだが、彼女は素直に受け入れた。しかしマリアは御使いが去るとすぐに山地にあるユダの町へ急ぎ、親類のザカリヤの家に行き、エリサベツに挨拶した。受け入れはしたもののそれは小さな胸にしまっておくには余りにも大きな事だから。そこで起きた出来事により、彼女が信じた事がどんなに素晴らしいものだったかが明らかに。私達も人生で様々な変化を経験するが、その全ては信じることから始まると知ろう。

 志を抱き上京した青年が、生活に疲れ、映画に溺れた。しかし金に困り、通行中の人に映画代を借りたことが切っ掛けで、働かなくても金が手に入ることを知り、やがて喝上げでその日暮らしをするようになった。抜け出したいとは思ってもそれは泥沼で、藻掻けば藻掻くほど深みはまっていった。そんなある日、母親が教会に行き、主イエスを信じた。そして息子も救われると信じて祈り始めた。

 そして彼を大阪に呼び戻し、礼拝に誘うと彼は一緒に礼拝に出席した。無理矢理誘われたのでも、精神的に追い詰められていたからでもない。母親の主を信じる生き方に大きな影響を受け、礼拝に出た。牧師に「主イエスを信じなさいそうすれば救われます。あなたの罪を神に告白し、悔い改めなさい。そうすれば救われます」と言われた彼は、自分の過去を振り返り、恥ずかしさで一杯になり、自分も救われたいと思い、真剣に祈った。主はその彼を捕らえ、彼は主イエスの十字架の愛を知り、主に全てを委ねてバプテスマを受け、新しい人生を歩み始めた。母親と牧師の愛と信仰が主に用いられ、彼は変えられた。自分にはどうにも成らなかった。でも道は有った。門は開かれていた。しかしその道は余りにも細く、門は遠く小さかった。しかし、母と牧師の信じる喜びが彼にその道を見出させた。

 エリサベツと胎の子も、主に全てを委ね、主の言葉をそのまま信じ受け入れたマリアと会い、大きな喜びを与えれた。人が御言葉をそのまま信じ受け入れたことで、その人に接する人の人生が大きく変わると聖書は教えている。信仰には自分と相手の人生を大きく変える力がある。水野源三という人の歌に「生きている 生かされている 歯が痛き 手足がかゆき 咳が苦しき」が有る。この歌を知り、彼が普通の人なら、苦痛としか思えないことの中に、神の恵みを見ていると知った。自分に起きている事を、あるがままに、恵みとして受け取っている。その信仰に触れた時、私は、主イエスを信じて生きられるとこんな生き方ができるのかと思い、主イエスを信じて生きる幸いが自分に迫って来るのを感じた。主は一人の人を捕らえ、確実にその生き方を変えさせた。その為に主は世に来て、十字架にかって死に、復活して全ての人と今も共にいる。主を信じて幸いな人になろう。