メッセージ(大谷孝志師)
現状を受け入れる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年5月29日
創世記26:12-26「現状を受け入れる」 牧師 大谷 孝志

 遙か昔に、神はモーセに現れ、「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言いました。創世記にはアブラハムとヤコブについては多くの出来事が記されています。イサクは彼らの息子、父として登場し、主役として登場するのはこの26章だけです。アブラハムは主と正面から向き合い、譲歩を引き出したり、叱られたりもしています。ヤコブはというと、主を自分の神として礼拝する為にはこうして欲しいと条件を付けました。また、主と格闘し、主が勝てないとみて、ヤコブのももの関節を外し「わたしを去らせよ」と言うと、「私を祝福してくれなければ、あなたを去らせません」と主に要求しました。今日はその父、イサクの物語です。

 聖書にはイサクへの主の一方的な言葉が記されているだけで、父と祖父のような生き生きとした主との会話はありません。父アブラハムがモリヤの地の山で、主に命じられて自分を縛り、全焼の献げ物としようとした時も、黙々と父がするままにしていました。嫁さん選びも父の言う通りにしました。彼の人生は受け身の人生であったと言えます。しかし、そのイサクの生き方から、私達は主に従って生きる者としての大切なものを学ぶことができます。

 教会の中にも積極的な人と消極的な人、社交的というか誰にでも話し掛けていける人、人見知りをしてしまう人がいます。内気な人もいれば陽気な人もいます。人見知りな人や内気な人は、気軽に初対面の人に話し掛けられる人や気になる事や要求を直ぐ口に出して言える人を見て羨ましいと思うのではないでしょうか。そして、直ぐ人の言いなりになる自分が厭になったり、歯がゆかったりしてしまいます。逆に、積極的な人、陽気な人は、相手の心の状態やその場の雰囲気を余り考えずに、思ったことを直ぐに口に出してしまい、相手を傷付けたり、、雰囲気をしらけさせ、後悔することもあるのではないでしょうか。しかし、自分の性格というものは簡単には変えられません。陽気な人がいると周囲は明るくなり、陰気な人がいると暗くなったはしますが、それも一概には言えません。いろいろな性格の人がいるから人生に刺激があり、新しい発見があり、成長もあるからです。大切な事は、自分が今置かれている現状、現実を素直に受け入れられるかどうかということなのです。

 さて、イサクが住んでいた場所に飢饉が起き、彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのもとへ行きます。主が彼に現れて「エジプトヘ下ってはならない。私があなたに告げる地に住みなさい。あなたはこの地に寄留しなさい」と言われたからです。主はそこで彼を豊かに祝福し、ますます豊かに富み栄えさせます。彼は多くの羊や牛の群れを持つようになります。しかしそれが、ペリシテ人の妬みと怒りを買ってしまいます。ペリシテ人達が彼が使っていた井戸をすべて塞いで土で埋めてしまったのです。イサク達は遊牧民でしたので、彼らにとって井戸は正に生命線でした。井戸の水がなければ、人も家畜も生きていけません。しかしイサクはその井戸を守るために彼らと戦わずに、簡単に放棄します。そしてゲラルの谷間に天幕を張ってそこに住みます。

 そこでイサクは、父アブラハムが掘り、父の死後にペリシテ人の王が塞いだ井戸を掘り返して使えるようにします。しかしアブラハムの時代からその地に住んでいたペリシテ人達が所有権を主張し、互いの羊飼い達が争うとその井戸を放棄します。そして、争いがなくなるまで、彼は井戸を放棄し続けたのです。彼は確かに受け身です。自分の権利を主張して相手と戦うことをしませんでした。だからと言って、諦めて放浪の旅を続けたり、だらだらと無為に日々を過ごしていたのでもありません。彼は井戸を掘り続けました。自分に今出来ることを精一杯し続けたのです。この事を通して私自身気付かされたのは、主が彼に水を与え続け、掘り続ける希望を与えていたことです。

 イサクは現状を否定的に、悲観的に受け止めません。彼は自分が置かれている状況を肯定的、楽観的に受け入れ続けたのです。それは、彼が自分は神の御心通りにしか生きられないと知っていたからだと、この説教準備を通して知らされました。更に聖書は、主が彼に必要なものを与え続け、彼に平常心を保たせ続けたと私達に教えます。ですから、私達も彼のように御心第一の生き方をすれば、楽観的、現状肯定的生き方が出来、もっと楽になれます。

 イサクは飢饉の中で、父アブラハムが飢饉の時の移住したエジプトに行きたいと考えました。私達も、頭では御心を第一とすることが大切と思っても、直面した問題解決の為には、過去に経験した或る方法の方が安全で、安心出来ると考えてしまうことがよく有ります。主はイサクの考えた方向を禁じ、危険が想定されるペリシテ人の方に行けと命じたのです。彼は従いました。私達も平安で豊かな生活を保障するのは、相手の人ではなく神であることを、しっかりと心に刻んでいたいと思います。彼は主の命に従って行動し、ペリシテ人の地で作物も家畜も増え、主の豊かな恵みを戴きました。しかし彼はそこを追い出されます。そして雨期になると激流が流れ、乾期には水を確保出来るかどうか判らない地ゲラルの谷間に移動します。そこも主が与えた地と信じるからです。昔塞がれた井戸を掘り返すのは大変な労力を要し、地下水脈なので、流れが変わっている場合もありました。しかし彼は、水が出れば感謝し、それを奪われても神に愚痴を言わず、その井戸に皮肉を込めた名を付けて撤退します。そのゆとりを生み出したのは、神への絶対的信頼、御言葉への絶対的服従です。だから彼は現状をそのまま受け容れられたのです。

 躍動感溢れる父と息子に比べ、イサクは静かに燃える人でした。積極的に相手や主と闘えなかったのかもしれません。しかし決して卑屈にならず、元気です。溢れるような力を感じさせます。彼のように主の御言葉が確実で信じるに足るものと私達は受け止めているでしょうか。主は私達にも、御言葉の確かさを示して下さっている筈です。安心して現状を受け入れましょう。

 最後に彼は争いと妬みの場から解放されました。彼は「今や、主は私たちに広い場所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった」と全てを委ねる者に最上のものを与える主に感謝しました。私達も彼のように、今の現状を主が与えたものと信じ、感謝して受け取る者になりましょう。主は私達を愛し、信じ委ねる私達の信頼に応えて下さる方と聖書は教えます。