メッセージ(大谷孝志師)

レールの上の人生を
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年6月5日
聖書 ピリピ2:12-18「レールの上の人生を」

 神は私達に自由を与えています。キリスト者は主イエスを信じているから、礼拝に出席し、教会に連なっていますが、全ての人にとって、主を信じるも信じないも自由です。聖日礼拝を守ることは主を信じる者なら、守るべき第一のことで、キリスト者には生命線ですが、実際問題としては、来る来ないはその人の自由です。同じように、人を愛する愛さないも、仕え合うか仕え合わないかも自由です。しかしパウロはこの箇所で、人は自分は何をしても自由だと思い、思った通りの事をしているけれど、神がさせている事をしているに過ぎないのだと教えます。何故なら「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方」だからです。全ては神がさせている事なので、人は受け身に過ぎないのだと教えています。それだけではありません。「すべてのことを不平を言わずに、疑わずに行いなさい」とまで言います。これを聞いて、私は「神は不平を感じ、疑問を持ちたくなる事を何故させるのか」と言いたくなりました。皆さんはどう思うしょうか。人である私達は、御心を的確に知り、先にある真実を予知できるのなら良いのですが、私達には分かりません。ですから問題が生じた時、不平不満、疑問をぶつけたくなるのは当たり前のことだと思います。それなのに、徹底して自分を抑えろと言うパウロの言葉を聞くと、人には自由はないのかと叫びたくなります。それに聖書は、神は全てを知り、全てが可能で、人の心と体を使って、必要な時に必要な事をさせる教えています。それなら、どこに私達人間に自由があるのか、と神に聞きたくなるのでは無いでしょうか。

 主イエスは自由についてどう言っているかと言えば、主はご自分を信じたユダヤ人達に「私の言葉にとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:31-32)」と言いました。パウロもガラテヤ5:1で「キリストは、自由を得させる為に私達を解放した」と言いました。聖書は主イエスを信じる人には真の自由が与えられると教えています。では、信じる前と信じた後の自由には何か違いがあるのでしょうか。主を信じていても、自分は自由だと思う人もいれば、もっと自由になりたいと思う人もいます。自分に自由が無いと、人の自由に憧れたり、嫉妬したりします。また、自分では自由と思えないのに、「あなたは自由でいいね」と言われたりすることもあります。自由に付いての考え方は、人によって、更には、その人が置かれた状況によっても大きく違うのは確かです。

 私は昔、自由には「からの自由」と「への自由」の二つがあると教えられました。人は自分を束縛する様々なものから解放され、自由になれたら素晴らしいと思います。しかしその自由は、実は逃避の結果で、自由を得た喜びは、様々な失ったものの代わりなのに、それに気付けないだけなのです。もし、自分を束縛するものの中に生き甲斐や生きる意味を見出せたとしたら、その人は敗者ではなく勝者の人生を歩めます。直面する事から逃げるも取り組むも自由と知った上で、その事に立ち向かえば、人生は大きく変わります。

 この自由こそが自分を前向き、積極的人生へと押し出す真の自由なのです。聖書が教える自由は「からの自由」ではなく、この「への自由」です。パウロはⅠコリ9:19で「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷になった」と言います。奴隷は束縛と制限を受けるので、奴隷になったら、自由ではないと思うかも知れません。しかし考えてみて下さい。人は束縛、制限があるからこそ、その中で自分らしく自由に生きられるのです。何故なら、束縛無しだと放縦に陥る弱さを人は持ち、その放縦の中に喜びと満足感を感じてしまい、その奴隷になってしまうのです。義務を伴わない権利はないと言われるように、束縛や制限のない自由もありえないと知っておくことが大切です。「七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず」と孔子という人が言いましたが、これは理想であり、何歳であっても人には無理で、主イエス以外には不可能と私は思っています。ですから、主イエスを信じ、その主が共にいて助けるから、人は真に自由に生きられると聖書は教えています。私達人間は、主イエスの支配という制約・囲いという制限の中にいることによってこそ、真に自由に生きていられるのです。

 この事を或る先生が「キリスト者の自由は、レールの上の自由なのですよ」と教えてくれました。列車はレールの上、レールが繋がっている条件の下にいる限り自由に移動できます。車輪がレールから外れたら、列車はそこで止まり、自力で動けなくなります。私達の自由も、主の御手の中、主の支配という制約、囲いの中での自由なのです。この囲い、制約こそが、主イエス・キリストが十字架と復活により、全ての人の為に敷いているレールなのです。ですから主イエスを信じるなら、このレールがあることを知り、このレールの上を安心して進むことができます。ですからパウロは、私達は何事もしたいから出来るのでなく、神が御心のままに、私達の内に働いて志を立てさせ、事を行わせて下さるから出来ると教えるのです。これが御霊の働きなのです。

 私達が主が敷いたレールの上を進むしかないということは、私達の人生の主導権の全てを主が持っているということです。主が、私達の人生の中で、何故、どうしてと不平不満を言いたくなる経験をさせるのは事実です。私達にとってそれらは、当座は厭な事、マイナスにしか思えない事です。しかし主は、それが私達に必要だからさせるのです。例えそうであったとしても、私達は主のレールの上を進んで行けば良いのです。伝道者3:11に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」とあるように、その経験を通して、主が今の自分になる為にこれをしたと信じ、感謝できるようになるからです。

 主を信じるなら真の自由を与えられます。私達は主が自分の十字架と復活により敷いたレールの上を進み続けられるからです。その自由を使い、神からも人からも愛され、愛する生活をしましょう。レールの上なら、留まるのも目的に向かって進むものも、或いは退くのも自由なのです。それだけではありません。どこへ向かうのかが判らなくなった時も、主が敷いた目標迄のレールの上を進んでいると信じられるので安心できます。ですから、主のレールの上の人生は自由で素晴らしいのです。感謝してこの上を進みましょう。