メッセージ(大谷孝志師)
救いに意味と目的が
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年6月5日
マルコ3:13-19「救いに意味と目的が」 牧師 大谷 孝志

 「イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた」とある。何の為の任命か。彼らを自分のそばに置き、彼らを遣わして宣教させ、悪霊を追い出す権威を持たせる為。主イエスは、彼らにその働きをさせる為に任命し、そばに置いた。私達の場合はどうか。キリスト者になったのは、主イエスを救い主、キリスト、私の主と信じたから。何故信じたのか。教会の宣教により、イエスが主キリスト、神の子、救い主と知ったから。しかし教会の交わりの中にいるのが楽しいから教会にいるのか。この世にも様々なグループがあり、合う人合わない人がいる。もし或る人が自分には合わないと感じると、簡単に抜けてしまうことが多いのでは。教会の中でもそんな話を聞くことがある。実は、教会とはそういう所では無い。人が教会に来る場合、自分の意思で、自分に合うと思ったから来ていると言う人がいる。しかし教会は、主イエスがその人が必要だとして、教会の存在を知らせ、招き入れたから教会に招いた。人と人を繋いでいるのは互いの興味や関心ではなく、主イエスの意思と力。人間的思いを超えて結び合わされているから強い。人間だから、嫌だと思う人、どうしても好きになれない人はいるのは確か。しかしそれが決定的力を持たない。教会は様々な人間的思いを全て包み込む主イエスの愛が働いている所だから。勿論主は私達を愛に満ちた、互いに愛し合い受け入れ合える交わりの中に入れる為だけに教会に招き入れたのではない。もっと大きな目的があるから。主イエスは十字架と復活の主、全ての人を滅びから救い出す為に世に来た方。その目的為にはその事を知らせる人が必要。だから主は、主の証人と呼ばれる働き人とする為に、私達を含め多くの人を教会に招き入れ続けている。

 しかし明治以来百年以上の宣教の歴史があるが、日本のキリスト者は依然として非常に少数。原因は様々なことが考えられるが、端的に言えば、キリスト者自身が日本の人々が求めているものを与える働きができていないからではないか。「礼拝や集会に出席し、献金するだけで精一杯。それ以上何をしろというのか」という反論があるかもしれない。しかし、初代教会の人々も少数者に過ぎなかった。しかし聖霊が降り、聖霊に満たされた彼らが福音を大胆に語り始めると、多くの人々が悔い改め、バプテスマを受け、続々と救われた。弟子達が優れていたからでも、決断力があったからでも無い。主が彼らを救い、弟子にし、そばに置き、生活を共にすることによって、実地教育をし、主の言動を見せて訓練したから。

 私達はどうか。主は私達と共にいる。私達の教会生活、キリスト者としての生活は、主イエスの実地教育の場でもある、兄弟姉妹の姿を見せ、また、この教会以外の様々なキリスト者の姿を見せ、主は私達に主を信じることの素晴らしさを教えている。そして、自分の信仰を表し、信仰の素晴らしさを確認する機会をも与えている。自分が救われたのは勿論自分の為だが、同時に自分が世に生きる中で出会う様々な人の為。主は私達を愛し、永遠の命を与え、恵みと平安を与えたように、世の人を愛し、救おうとしている。あの弟子達も主イエスを信じれば救われると知っていた。しかし最初は伝えられなかった。しかし、聖霊に満たされ、福音を大胆に語り出した。私達の内に宣教を躊躇させるものがあるのは確か。しかし私達は、人に福音を伝えられて救われた。主は福音をもっと多くの人に伝えさせる為に私達を救ったと信じよう。自分ではなく、使徒達を、自分に福音を伝えた人を見よう。主イエスを見上げよう。私の救いに意味と目的があると判る。