メッセージ(大谷孝志師)

神は全ての人を救う方
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年6月12日
聖書 ヨハネ4:31-42「神は全ての人を救う方」

 先月の第二週に続いて、スカルの井戸辺での出来事を通して学びます。

 主イエスが「あなたと話している私が、あなたがたも来るのを待ち望んでいたキリストです」と言うのを聞いたサマリアの女性は、大事な水瓶置いたままイエスのことを知らせに町に行きました。町の人々に白い目で見られていた彼女は、人目を避けて、昼の暑い盛りに水を汲みに来ていました。彼女のその行動は、それ程心に強い衝撃を受けたたこと示します。彼女は人々に「私がしたことを全て言い当てた人がいます。もしかすると、この方がキリストかも知れません」と遠回しにですが、自分の信仰を人々に告げました。彼女が自分の信仰を伝えた時、新しい驚くべきことが起きました。それを聞いたサマリアの町の人々が衝撃を受け、イエスに会いにやって来たからです。

 今日の個所は、彼女が町へ行った後、買い物から帰ってきた弟子達と主イエスとの対話です。彼らが主に食事を勧めると、主は「私にはあなたがたが知らない食物がある」と言いました。彼らは驚いたのは勿論ですが、内心、誰かが食べ物を持って来るのであれば、ユダヤ人の自分達が嫌な思いをするのを承知でサマリア人の所に買い物に行かせなくも良かったのだ。言ってくれればよかったのに、と弟子達は思ったのではないか、と私は思いました。

 しかし私は教えられたのです。聖書を読む時、その事実だけを考えてはいけないと。主イエスはここで、何の為に自分は世に来たのか。何故彼らを弟子に招いたのかを知らせたのです。その事を読み取らなければ、聖書を読む意味が無いと気付かされました。牧師になっても人生一緒勉強です。弟子達は誰かが食べ物を持ってきたのかと考えましたが、主はそうではない。私の食べ物とは私を遣わされた方の御心を行い、その業を成し遂げることだと言います。遣わされた方とは父なる神です。その御心を行い、その業を成し遂げることが私の食べ物だと教えたのです。人々を救うことが主が世に来た目的なのです。この「成し遂げる」は主の十字架上での最後の言葉と同じです。主は全ての人を救う為に世に来て、十字架の死でそれを成し遂げたのです。

 さて主は「刈り入れまで四ヶ月あるが、目を上げて畑を見よ、色づいて刈り入れを待つばかり」と言います。種は蒔かれても、芽生え育ち収穫できるまでは四ヶ月が必要です。ですから、主が既に収穫できると状態にあると言うのは、麦のことではありません。世の人々の救いのことです。主の種蒔きの譬え話のように、蒔いたのは伝道者で、蒔かれたのは御言葉です。作物の種は成長に時間が掛かりますが、御言葉はそうでは無く、聞いた人に、受け入れるか捨てるかの決断を迫るものなのですと主は教えているのです。主が「見なさい」と言ったのは、麦畑のことではありません。女性からキリストかも知れないと聞いて来た弟子達の目の前にいる大勢のサマリア人達です。ユダヤ人である弟子達はサマリア人は救いの対象ではないと思っていました。しかし主は、神は対象を制限しません。自分でこの人は駄目、この人は無理と勝手に決め付けてはいけません。神は全ての人を救う方と教えたのです。

 さて、多くのサマリア人が、主イエスについて証言した女のことばによって、イエスを信じた。それでサマリア人たちはイエスのところに来て、自分達の所に滞在して欲しいと願った。そこでイエスは、二日間そこに滞在したとあります。彼女をふしだらな女と見ていた人々でしたが、主に直接会ってキリストと確信する前に、その彼女の言葉を聞いて信じたのです。私達は自分には福音を人々に語る資格はないと思ってしまうことはないでしょうか。聖書は、主イエス・キリストとの出会いを経験して、主イエスこそ救い主と信じたら、それを語れば良いとこの出来事を通して教えます。ヘブル4:12に「神の言葉は生きていて、力があり…心の思いやはかりごとを見分けることができる」とあります。彼女は主の証人になったのです。彼女が証ししたその言葉は、人の言葉でありながら神の言葉となったのです。これ迄の人に後ろ指を指されるような彼女の人生が覆い尽くされ、彼女の言葉が、キリストを知らせる神の言葉として人々に届いたのです。これこそが、主を証しする者が経験させて戴ける大きな喜びだと言えます。彼女の経験から出た彼女の言葉です。でも、それが真理を明らかにする言葉として相手に届いたのです。

 彼女の言葉が、更に人々に求道の心を生じさせたことに私は気付きました。パウロは「信仰は聞くことから始まる」とローマ10:17で言った後、10:12で「ユダヤ人とギリシア人の区別はない。同じ主がすべての人の主で、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かな恵みを与えになる」と言いました。彼女の自分はキリストに会ったとの証を聞いたサマリアの人々に、主を呼び求る思いを強く生まれました。彼らは必死に、心から主に二日間の滞在を求め、主がそれに応えました。その結果「更に多くの人々が、イエスの言葉によって信じた」と聖書は記します。先々週の讃美と証の礼拝に限らず、私達には証をする時があります。パウロが教えるように、証には素晴らしい力があります。人の言葉でも、主イエスの御業を知らせるので、御霊が働くからです、証には、聞く人に自分も救い主を呼び求めたいと思う心、新しい自分として生きたい、新しい自分として生かして欲しいとの思いを生じさせる力があると信じ、そういう証しをしましょう。町の人々は自分達の求めに応えた主の言葉を自分で聞きました。彼女の証を御霊が用い、彼らに、共にいる主との霊的交わりを体験させたのです。御言葉が語られる所に、主の恵みが注がれます。主の臨在を知った人の証は人々に主に求める心を生じさせます。そして、その主に心を満たす何かを求めた時、サマリアの人々のように、自分の心で主の言葉を聞き取り、それ迄、イエス・キリストという名前だけを聞いて知っていただけの人が、イエス・キリストが、今もいる自分の救い主と判り。そして、主に救われた人としての新しい人生が、その人に始まるのです。

 聖書がこのサマリアでの出来事を記したのは、主イエスは生きていて働いているので、今も救われる人が生まれると私達に気付かせる為です。その事が起きたから、私達は主イエスを信じて救われ、この教会の働きが今も続いて来ているのです。サマリアで起きた事がこれからも私達の周囲の人々にも起きると信じ、主の証人として救われた喜びを私達も人々に証ししましょう。