メッセージ(大谷孝志師)
御言葉を語る人に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年6月12日
出エジプト記4:10-12「御言葉を語る人に」 牧師 大谷 孝志

 モーセは神の山ホレブにやって来た。神は彼に「エジプトで奴隷になっている私の民イスラエルの所に行き、彼らをエジプトから導き出せ」と命じた。モーセが「いったい私は何者でしょう、そんな事が出来る筈はありません」と答えると「私はあなたと共にいる。これがあなたの為のしるし」と言う。民に「お前を遣わした神の名は何かと聞かれたら、どう答えれば良いか」と彼が聞くと「私はある」と言う者」、更に「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主と」名を教えた。しかしモーセなおも神に食い下がり、「彼らが私の言う事を信じなかったらどうしましょう」と言うと、彼が杖を投げると蛇になり、蛇の尾を掴むと杖に戻る奇跡と、懐に入れた手がツァラアトになり、もう一度入れると元通りになる奇跡を彼らに見せれば彼らは信じるだろうと彼に言う。

 モーセはそのように神に言われてもなお、自分は話すのが苦手なので、誰か他の人を遣わしてと神に懇願した。先日もCSの礼拝で話したが、バプテスマを受けに行く電車の中で「イエス様を信じるって素晴らしいですよ」と声を大にして叫びたかったけれど、どうしても声が出てこなかった。後期高齢者になった今でも、教会の前に立っていたり、道を歩いている時、前を通る人や子連れの女性に「教会に来てみませんか」と呼び掛けたいが声が出ない。知り合いの人にもただ頭を下げたり、天気の話をして終わるのが殆どと言っていいのが私の現実である。

 でも、何故声を掛けたいと私は思うのか。私は主イエスが全ての人を罪と死の奴隷から解放する為に、十字架に掛かって死に、復活したと知らされ、信じて救われた。そして、信じる前と信じた後の自分の違いを知っている。だから。それを他の人にも知って欲しいと思うから。でも、したいと思っていても口に出せない。謙遜という殻に閉じ篭もり、恥ずかしさという壁に阻まれてしまう。どうしても十字架と復活の主イエスを見上げず、自分の目の前にいる人を見てしまうから。

 主は、ご自分の民をエジプトでの奴隷状態から解放する為に、モーセを必要としたから、彼をエジプトにいるご自分の民に遣わそうとした。彼は確かに神に問い掛けらられ、神に答えてはいる。しかし彼が見ているのは、神ではなくエジプトにいるイスラエルの人々。御心よりも人々にどう思われるかが先に立っている。

 パウロはローマ12:2で「この世と調子を合わせるな。自分を変えていただけ、何が良い事で、神に喜ばれるかを見分けよ」言う。これが大切なのだが、分かっていてもできないのが私達。モーセは自分に到底無理と断り続けたが、神に押し切られ、エジプトに行き、民を導き出した。民を奴隷の状態から解放する為には御言葉を告げるモーセが必要だった。私達の周囲の殆どの人は、主イエスを信じ、救われたら豊かな恵みを戴き、平安に満ち、希望に溢れた生活ができると知らず、罪と死の奴隷になったまま。主はその人々の所に行き、福音を伝えよと命じる。

 モーセも躊躇し、断り続け、主の復活後の弟子達も、ユダヤ人を恐れ、閉じ籠もっていた。しかしモーセはエジプトへ行き、使徒達も全世界に出て行って福音を歌えた。御心がこの世に行われる為には、神の言葉を語る私達が必要と知ろう。パウロがローマ10章で言うように、福音を伝える人がいなければ救われる人がいないから。世の人々為に十字架に掛かって死に、復活して、今も人々が悔い改めて救われるよう願っている主の愛を心に刻み直そう。そして自分に託されている神の言葉を語る者になろう。その為にここに教会があり、私達が居るのだから。