メッセージ(大谷孝志師)

信仰の父アブラハム
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年6月19日
聖書 創世記22:1-14「信仰の父アブラハム」

 今日は父の日です。私の父は1917年大正6年に生まれ、89歳で天に召されました。晩年は認知症になりましたが、にこやかで息子の言うことは良く聞いてくれ、デイケアーやショートステイを利用しながら、一緒に礼拝を守り、楽しい日々を過ごしました。尋常高等小学校卒業後今のNTT、電電公社に入り、学歴は高小だけでも、勉強に仕事に熱心で、最後は電話局次長で退職しました。定年前でしたが、一人っ子の私が結婚して牧師になり、親元を離れたこともあり、退職勧奨を受けて退職し、その後は趣味の謡曲の名誉師範になり、自宅に能舞台も造り、充実した人生を全うしました。父は戦前に、母は戦後にキリスト教に触れる機会があり、両親ともキリスト教は好きでした。しかし、二つの謡曲の会を主催していたので、礼拝には時々出る程度でした。

 母は私の最初の妻が天に召された後、二児を抱える私の手伝いに助産師の仕事を辞めて来る中で、主に全てを委ねるしか無いと知り、バプテスマを受けましたが、父はなかなか決心できませんでした。しかし、1988年の教会の一泊修養会に出席した時、プログラム終了後の親睦の時に、同じ電電公社の先輩だった人が教会役員をしていて、その人に「息子が長年牧師をしているのに、父親のお前がクリスチャンでないのはおかしいだろう」と言われ、ようやく決心し、その年のクリスマスにバプテスマを受けました。そして、私が実家から一時間程度の場所で開拓伝道を始めると、既にクリスチャンになっていた母と一緒に、極力礼拝に出席し、私の働きを支えてくれたのでした。内気でどちらかというと口下手で、問題が起きると解決を母に任せていましたが、私が神学校に行く決心をすると、この私を受け入れて、支え続けてくれました。そのような父を与えて下さったことを本当に主に感謝しています。

 さて、今日の聖書に登場したアブラハムは、題にあるように「信仰の父」と呼ばれた人です。彼は75歳の時、主に命じられて、親族と父の家を離れ、主が示す地に行き、主の豊かな祝福を受けました。しかし99歳になるまで、妻サラとの間に子が生まれませんでした。しかしその夫婦に主が現れ、来年の今頃にサラに男の子が生まれると約束し、約束通りにイサクが生まれ、百年という年月を経て、彼は御言葉の確かさを深く深く実感させられたのです。

 主は「そのイサクを全焼のささげ物として献げよ」と命じたのです。創世記17章で主は「あなたの妻サラが、あなたに男のを産むのだ。あなたはその子をイサクと名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、それを彼の子孫の為に永遠の契約とする」とアブラハムに言いました。イサクが結婚する前に、彼を殺せた命じるのは、主が祝福の約束を反故にすることを意味します。しかし彼は、主の命令に従い、モリヤの地に向かいます。彼の心は激しく動揺していたと思います。ですが、聖書はこの情景を、静かに淡々と記しています。百歳になってやっと与えられた子です。主がこの子と後の子孫の為に永遠の契約を立てると約束した子なのです。私は彼のこの冷静さに、不思議な感動を覚えました。私も神を信じています。しかし何かが違うと感じたからです。

 人は誰も、神はこういう方と自分の観念で神を思い描き、その神を信じています。そして、自分の思い、こうあるべきで、こうあってはならないとの考えに縛られ易いのではないでしょうか。彼は今自分に命じた主の言葉に従順に従いました。パウロはアブラハムについてローマ4:17で「彼は死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となった」と言っています。彼は主イエスがマルコ10:27で言ったように「神にはどんなことでもできる」と信じていたのです。彼はおよそ百歳になり、自分の体が既に死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱らなかったからです。ですから神に「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを全焼のささげ物として献げなさい」命じられても、「不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信し」、神が告げた場所へ向かったのです。彼は、望み得ない時に望みを抱いて信じ、イサクを殺すことなく、多くの国民の父となりました。パウロはロ-マ人への手紙でアブラハムの信仰についてこのように教え、ガラテヤ3:7で「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であると知りなさい」と教えます。

 主イエスを信じ救われた私達は、神の子とされ「天のお父様」と神に呼び掛けています。でもその「天の父が完全であるように完全でありなさい」と言われ、完全を目指そうとは思っていても、完全な者になれるとはとても思えない私達です。ですから、妻の尻に敷かれて、ハガルを追い出したり、自分の身を守る為に妻を妹と偽ったりしたアブラハムの弱さに、私は親しみすら感じてしまいます。しかし、彼は愛するひとり子を殺せと命じられ、その主に黙々と従っています。彼のその信仰が心に突き刺さった時、全てを捨てきって主の御言葉に従っていなかった自分に気付かされました。そしてその私の心に、主イエスの「だれでもわたしに従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」との御言葉が響きました。

 アブラハムは取るべき信仰者としての道を示しているのです。彼はイサクに「火と薪はありますが、全焼の捧げ物にする羊は」と聞かれ、「神ご自身が羊を備えて下さる」と答えます。しかし神が命じた場所に着くと、息子を祭壇の薪の上に載せ、刃物を取り、息子を屠ろうとします。神は彼が心の底から神を恐れているかどうかを、彼自身の行為によって明らかにさせたのです。私達も彼と同じ人間です。先の事も神の真意も知ることはできません。聖書は彼のように告げられた御言葉に、御前にひれ伏す思いで、まず従えと教えます。それが主イエスを信じる私達にとっても取るべき最善の道だからです。

 私は正直言って怯む思いになりました。しかし彼は、心の中で激しく葛藤しながらも御言葉に従う者に神は最善の事をすると信じたのです。神はその彼の信仰を祝福し、彼に恵みと平安を与えたのです。父も古希を過ぎて救われましたが、主が父の信仰を祝し、生涯を全うさせて下さり感謝しています。主は、アブラハムのように私達を愛し、全てを愛と恵みで包み、道を示し、歩ませる十字架と復活の主です。その主を信じ、共に歩む者になりましょう。