メッセージ(大谷孝志師)

どんな境遇にも満足できる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年6月26日
聖書 ピリピ4:10-14「どんな境遇にも満足できる」

先週は第三週でしたが父の日でした。イサクの父、そして私達全てにとって信仰の父とも呼べるアブラハムを通して学んだので、今週はピリピ人への手紙を通してパウロの信仰を学び、私達にキリスト者としてどのよう生き方が示されているかを学びます。今日の個所には、キリスト者として生きる事、福音を伝える人となることがどんなに素晴らしいかが教えてられています。

 人は誰にも、この世に生きている限り、何かしらの不足、不満を持った経験があると思います。現実に今そうだと言う人もいるかもしれません。人である以上、どうしても様々な足りない物や満足できない事があるのを感じてしまうからです。しかし、この手紙を書いたパウロは「どんな境遇にあっても満足することを学んだ」と言います。彼がどんな人だったかは、聖書に残されている手紙と使徒の働きを通して知ることができます。今日の箇所からも分かるように、彼はどんな境遇にいても満足できました。何故でしょう。彼は素晴らしい宣教者、牧会者でした。でも超人だった訳ではありません。

 彼自身、Ⅱコリント11:27で「飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中で裸でいたことも」あったと言います。宣教者としての彼の人生は、決して安心、安全なものではありませんでした。この世の常識からすれば到底満足できるものでもないし、境遇に満足できる程の金持ちでもありませんでした。しかし彼は2:14で「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい」との勧めていますが、その勧めを彼自身が実践していたのは確かなのです。この手紙を読めばよく判りますが、彼の歩みは喜びに満ち溢れていました。彼はその理由を、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていたからと言います。

 何故そんな素晴らしい秘訣を心得ることができたのでしょう。実は、聖書が至る所でその秘訣を教えているのです。それは「人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われた(2:7-8)」と彼が主イエスのこと記しているように、目には見えないけれど共にいる十字架と復活の主イエスが彼と共にいたからなのです。彼の2:14の勧めは一見非常な厳しさを感じさせますが、主イエスが私達も含め、自分に従う者に与えた「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい(マルコ8:34)」との命令を実践しているのです。主を信じるとは、あれかこれかの二者択一の選択を迫られることなのです。主イエスが、パウロが歩んだ道、主が私に従え、パウロが私に倣えという道を私達が歩むなら、私達もどんな境遇にあっても満足できます。これが救われるということなのです。価値観、世界観が変わるのです。どんな境遇にあっても満足でき、いつも喜んで生きられるというこの生き方を全ての人に可能にする為に、主イエスは十字架に掛かって死に、復活し、今も生きて働いています。そして、誰も滅びることなく、悔い改めて、信じない者ではなく信じる者になることを望み、救われた者を用いて全ての人に働き掛けていると私は信じていますし、聖書が私達に大切な真理としてそれを教えています。

 5月29日の夕礼拝で「現状を受け入れる」という題で「受け身の人イサク」について話をしました。パウロは様々な困難にもめげずに、力強く福音を宣べ伝え続けましたが、彼も「受け身の人」と言えます。彼は、確かに困難な状況になることを承知で、福音宣教の旅を続けまし。しかし「使徒の働き」16:6で「アジアでみことばを語ることを禁じられた」「ビティニアに行こうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった」とあるように、彼の行動は御霊の指示によるものだったのです。彼は、主にその境遇に置かれることによって、その中でしか学べない満足することを学び、その境遇に対処する秘訣を習得したのです。私達はマザーテレサやキング牧師にも限りない力強さ、優しさを感じます。でも、彼らの力強さ、相手への深い配慮も生来のものではなく、主が彼らを強くしたからこそ発揮できたに過ぎないと信じています。

 この手紙から、ピリピ教会の人々に同じ様な強さと優しさを私は感じます。パウロの信仰者として「自分を捨て自分の十字架を負って、主に従って」生きる彼の生き方が、彼らに良い影響を与えていたからです。ですから私達が、この手紙を通して信仰者としてのパウロの生き方に触れることができれば、私達も、どんな境遇にあっても満足する者なれます。それが私達にとっても大切な事だからこそ、主はこの手紙を、聖書として私達に与ているのです。

 確かにピリピ教会の人々は彼から良い影響を受けました。しかし、単なる受け身の人達ではありません。「苦難を分け合った」とパウロが言うように、彼と彼らは、主の「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」との戒めを実践し合っていたと言えるからです。彼の自分達への愛を知り、彼に倣って、彼を愛したのです。ですからピリピ教会は、彼の必要を満たす為に、一度ならず二度までも物を送って彼を支えました。しかも、有り余る物の中から贈り物をしたのでなく、自分に必要な物を裂いて送り、パウロの必要を満たしたのです。その事が、彼らの贈り物を受け取って抱いた彼の10節の「あなたがたは案じてはいてくれたのですが、それを示す機会がなかったのです」という言葉に暗示されているのです。自分達の為よりも、パウロの為に、彼を用いている主の為にとの思いが溢れているのを彼が感じ取ってたからです。ですから、彼らの贈り物を「芳しい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげげ物」と言っています。彼らもまた、富むことにも貧しいことにも対処する秘訣を心得ていたからと教えられます。彼と彼らが善い影響を与え合っていたのです。しかし、それは彼と彼らが信仰者として優れていたからと考える必要はありません。むしろ私達と同じ人に過ぎないと考えましょう。神が支えて下さったから可能になったのです。何よりも、彼らがいつも喜び、絶えず祈り、全てのことを感謝する者となるよう主が望み、ご自分の豊かさに従って、彼らの必要を全て満たしたのです。彼らの関係を私達が模範にできるものとして示し、私達も彼らに倣う者と成りなさいと語り掛けています。私達にもできるからです。そうなるよう主が望んでいるからです。主が御力をもって実現させて下さるからです。「どんな境遇にも満足できる者にする」主を信じ、この世で、主の証人として福音に力強く生きる者に成りましょう。