メッセージ(大谷孝志師)
されど御言葉は朽ちず
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年6月26日
Tペテロ1:22-25「されど御言葉は朽ちず」 牧師 大谷 孝志

 教会の前庭にはコスモスを始め、色取り取りのが花が咲いている。それぞれに命があり、季節毎の花が咲き続ける。しかし、時が来れば花は萎れ枯れるが、木はしっかりと葉を茂らせ、草もしっかりと根を張り栄養を来年の為に蓄えている。だから私達は冬枯れの野に寂しさを感じても、花咲く春を期待し、待ち望める。

 しかし人はそうはいかない。人は皆日々、精一杯生き、教会にも数十年生きている人もいれば、十数年の人もいる。だが人は必ず死ぬ。若くても年老いても、人は後何年生きられるかを誰も知らない。中国の劉希夷という人の詩に「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」という言葉がある。詩人はこの詩で、人は一本の草花にも、自然界の営みの常に変わらぬ雄大さを見出せるが、人間に対しては、あの人、この人の死に寂しさ、悲しさを意識してしまう存在と教える。どうしてか、人は自分と他人の違いをはっきり知るから。そして何より、人は自分という人間、そしてあの人この人が、それぞれに掛け替えの無い存在と知るから。だから人が死ぬと、悲しさ寂しさを強く感じ、自分がいつかは死ぬと考え、空しさを感じる。

 しかしそれは、人間だからこその素晴らしさだと私は思う。神に命の息を鼻から吹き込まれ、知恵を与えられたからこそ考えられるのであり、そのような人間だからこそ、諸行無常のこの世の中に、変わらないものを見極められるのでは。とは言え、人は神から特別に与えられた知恵を無駄に使い、肉の思いを優先させ、自分本位の生き方の中で、神に期待できる自分を見失ってしまった。神はその人間を憐れみ、御子を救い主として世に与え、御子を信じる者に永遠の命を与えた。主イエスを信じて救われた。私達は信仰と希望と愛を神に与えられたので、その主に従い、助けられて、きよい心で互いに熱く愛し合いなさいとペテロは教える。

 ペテロはその事を「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」と草花に例えて教るた。

 原崎百子著の「わが涙よ わが歌となれ」という本があるが、その後書きにご主人の原崎清牧師が、自分の信教を最もよく表す御言葉として、詩篇119の一部を引用している。「主よ、私はあなたの裁きの正しく、また、あなたが真実をもって、私を苦しめられたことを知っています。しかし、苦しみに会ったことは、わたしによいことでした。これによってわたしはあなたのおきて(恵み!)を学ぶことで聞きました」愛する人の死によっても動かされることなく、その出来事を通して主の御旨を知り、主の恵みを味わうことができるのは変わることのない生ける御言葉によって、その先生が新たに生まれていたから。主のみ言葉によって人生の新しいスタートを切る人は、全てのものの内に働き、全てのものを生かし、支え、完成へと導く主の御言葉を読み取ることができる。人の死に限らず、突然、相手が遠くに感じられることや、相手の言葉や態度に空しさや偽りを感じてしまうことがある。人の言葉は変わりやすく、相手への印象も移り変わり易いから。

 しかし、御言が朽ちることはない。人の体がいつか朽ち果てるように、人に付随し、内側から出てくるものは完全なもの、永遠のものではない。私達にとって大切なものはその朽ちるものの中に、朽ちることのない、生きた主の御言葉と主の御業を見極め、見抜くことだと言える。伝道者の書3:11にあるように「人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」だからこそ、主の御言葉を求めよう。御言葉は朽ち果てず、その私達へのみ言葉は聞き取れるから。