メッセージ(大谷孝志師)

御霊によって共に歩もう
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年7月3日
聖書 ガラテヤ5:13-18「御霊によって共に歩もう」

 尾道の対岸にある向島の小歌島の地で教会の歩みが始まり、早76年が経ちました。これ迄幾多の牧師、 教会員がこの地に教会を建てた主に遣わされ、主の為に力強く働き続け、この教会の歴史に関わって来ています。私達はその歴史を受け継ぐ者として、主にここに招き入れられているのです。ですから今日は、ガラテヤ人への手紙5章13-18節を通して、私達の教会がこの地で成長していく為に、こうすれば良いと主が語り掛けている御言葉を学びます。

 この手紙を読むと、ガラテヤの諸教会はかなり酷い状態に思えます。噛み付き合ったり、食い合ったり、自惚れて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりしないようにしようと、強烈な言葉をパウロが書き連ねているからです。しかし、この諸教会は本当に最悪最低の憂うべき状態だったのでしょうか。パウロは6:1で「兄弟たち、もし誰かが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」と言います。その現実を変える使命を与えられている人々がいるとパウロが認めているのです。確かにこの教会が、彼が伝えた福音から離れ落ちているので、他の手紙に見られない強い調子で語り掛けてはいます。しかし、決して非難していないのです。その状況に絶望し、諦めてはいないのです。何故しょうか。その教会もキリストの体なる教会、神の教会だからなのです。確かに神の教会であっても教会は人の群れです。主は必要として様々な人を招き入れているので、互いの思いがぶつかり、価値観や目指す方向の違いで、時に衝突が起きることも、仕方がないと言えば、仕方のないことなのです。

 しかし、衝突し合っているだけでは教会は成長しません。ですからパウロは、自分が伝えた福音に立ち帰るようにと懸命に語り掛けるのです。でも、単に間違った道を歩む彼らを放っておけない、彼らを愛して止まないからでしょうか。確かにそうですが、それだけではありません。彼が主イエスの御力、御霊の働きに絶対的信頼を置いているからです。希望を主に置いているからです。教会の交わりの正常化と信徒一人一人の信仰的成熟は人の力では不可能です。全ては主の御心、御力によるのです。彼らを教会に招いた主は今も彼らを愛し、正しい道に導くと信じるからです。そして何より、彼は彼らの内に御霊が働いていると見抜いているのです。ですから「あなたがたが別の考えを持つこと決してないと、わたしは主にあって確信している」と言い切れたのです。教会がどう有るべきか、何をすべきかの考え方は人によって違います。それだからこそ、相手がどうあれ、パウロのように徹底的に相手を信頼し、相手と共にいる主イエスを信頼することが大切と知りましょう。

 パウロがこれ程迄に彼らの為に熱心なのは、ガラテヤの人々が、彼が宣べ伝えた福音から離れていることが残念でならないからです。主キリストが、彼らに自由を得させる為彼らを律法から解放したのです。それなのに彼らは、ヤコブの所から来た人々の教えに惑わされ、律法を行わなければ神に受け入れられないと思い、結果的に再び奴隷の軛を彼らが負わされているからです。

 パウロは、そんなガラテヤの人々でも正しい福音信仰に立ち帰れると信じています。それは、ピリピ1:6の「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」という確信をこの人々にも持っていることが、彼の手紙を読むと良く分かるからです。彼は確かに途方に暮れていました。(4:20)。でも、諦めず、彼らの為に産みの苦しみをしているのです。主が彼らを愛して福音信仰に引き戻すとの希望を持っているからです。パウロは本当に素晴らしい伝道者です。自分にではなく主に期待しているからです。彼にしても途方に暮れるような現実に立たされ、希望が微塵にも感じられない状況にありました。でも希望を見失わないのです。御霊が助けて下さると知っているからです。御霊によって歩む時、私達も世の常識では考えられない経験をします。主に期待すると言うと、世の人々は頭から馬鹿にするかもしれません。しかし私達はそれこそが最善の道と知っています。そうするなら、どんな状況に置かれても、どんな局面に立たされても、希望を持って前進できるからです。

 ですからパウロは、律法を行えば神に喜ばれる者になれると思い込んでいるガラテヤの人々に、そうではなく「御霊によって歩きなさい」と言います。人は、自分の行いで神に喜ばれたいと思うと、サタンの罠に陥ってしまうのです。神に喜ばれる者になりたいと思い、神の為、人の為にしているつもりでいても、自分か相手のどちらかを取らなければならない時、人はどうしても自分大事になってしまうからです。神に喜ばれたいと思うなら神大事になれば良いのです。ですから彼は「御霊によって歩みなさい」と教えるのです。

 或る先輩牧師がこんな話をしてくれました。アメリカ、ボストンにある教会の牧師が、長い間、教勢の不振に心を痛めていたそうです。彼はある夜、夢を見ました。礼拝の会衆席に見慣れぬ紳士がいたのです。牧師は礼拝後、執事の一人に「先程の紳士はどなたでしたか」と聞きました。すると「あの方は主イエスでしたよ」と執事が答え、そこで夢から覚めたのだそうです。この出来事がこの教会を大きく変えました。長い間振るわない状況が続く中、諦めに似た気持ちが教会全体を支配していました。自分達のことだけを見ていたからです。しかし牧師が見た夢によって、この教会の只中にも生ける主が居るとの確信が、牧師自身と信徒全ての心に湧き上がったのです。そして正に「御霊によって」皆が歩き始めたのです、祈りは勿論、讃美も説教も献金もこの確信によってなされていきました。正にリバイバルが起きたのです。

 御霊によって歩む、御霊によって生きるとは、神秘的恍惚状態で生きることではありません。勿論思い込みでは不可能で、直ぐに挫折します。自分達を愛する主イエスが、教会に、一人一人の内に現にいると信じて生きることです。信じることです。そして一人一人が、主に愛されている者として、その主によって、全てを判断して生きることなのです。主はこの向島教会の全ての出来事の只中にいて現に導いてきたから、私達はここまで歩み続け、様々な恵みを味わってきました。恵みを数えましょう。その主はこれからもこの教会の只中にいます。御霊によって生き、御霊によって共に歩みましょう。