メッセージ(大谷孝志師)

主のみ言葉を信じる者に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年7月10日
聖書 ヨハネ4:43-54「主のみ言葉を信じる者に」

 主イエスはサマリアの人々を救いに導いた後、4:3に書かれているように、ガリラヤに行きました。マタイとマルコの福音書には、故郷のナザレの人々が、自分達が見知っている家族の一員であるイエスが示した知恵と奇跡を行う力に驚き、怪訝な思いになり、躓いたとあります。ルカの福音書では歓迎しなかっただけでなく、主を町の外に連れ出し、崖から突き落とそうとしたとあります。これに対しヨハネは、ガリラヤの人々はイエスを歓迎したと記します。しかし、それは2:23のエルサレムの多くの人々が、過越の祭りに来たイエスが行った奇跡を見て信じたように、ガリラヤの人々も同じ祭りでそれを見てイエスを歓迎しただけなので、真の信仰ではなかったと暗示します。

 この主による遠隔治癒の奇跡はマタイとルカも記していますが、病人は百人隊長の僕で、治癒の場所はカペナウムで主もそこにいます。ヨハネでは、病人はカペナウムにいる王室の役人の息子です。そして主は30㌔以上離れたカナにいます。しかし、両方同じ出来事と考えられています。但し、伝え聞いた人がそれぞれのように聞き記したので、違いが出たと考えられています。

 マタイとルカの百人隊長は異教徒なので、ユダヤ教教師を自分の家の中に迎え入れられないと知っていたので、主を家の中に迎え入れられなかったのです。ですから「お言葉を下さい。そうすれば私の僕は癒されます」と願いました。これを聞いて主は「イスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがない」と褒め「あなたの信じたとおりになるように」と言い、丁度その時、僕は主の言葉により癒されました。これに対し、ヨハネの役人は言葉による癒しを願わず、主がカペナウムに来て、死にかかっている息子を癒すようにと願っています。ですからヨハネは、百人隊長への言葉とは対照的な「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」との主の言葉を記します。しかし、彼は必死に主が自分の家に来るように願い続けました。その彼に主は「行きなさい。あなたの息子は治ります」と言いました。主イエスはご自分に求めてくる者の求めに応える方と聖書は私達に教えています。彼は自分の願いを聞き届けた主の言葉を信じて家に帰ります。

 彼が主の所に来たのは、主が癒し主だと聞いて、藁をも掴む思いで来たのです。主は彼の心を見抜いていました。しかし、主はその子だけでなく、彼自身をも憐れみ、彼を見ないと信じない者ではなく、見なくても信じる者に変えたのです。ですから彼は家に帰りました。その途中で、僕達がその彼を迎えに来て、彼の息子が治ったと告げたのです。その時刻を尋ねると、主が「あなたの息子は治る」と言った時刻と知り、彼自身も家の者達も皆イエスを信じたのです。確かに彼らは、主の癒しの奇跡の結果、主イエスを信じる者になりました。彼も彼の家の者達もガリラヤ人、イエスが行ったしるしを見て主を歓迎した人達です。ヨハネは、その人々の中の役人が、見たから信じたのではなく、見ないで信じる者になって帰り、その結果主の言葉の確かさを知って主を信じたと記すことで、信仰者の素の姿を明らかにしています。

 マタイとマルコでは、主が遠く離れている人を癒やした事より、百人隊長が主が言葉によって自分の僕の病を癒すと信じたことに強調点があります。主はその彼の信仰を「イスラエルのうちでもこれほどの信仰を見たこともない」と褒めました。ヨハネは、同じ主イエスによる遠隔治癒の奇跡ですが、役人の懸命な願いを聞いた主イエスが「あなたの息子は治ります」と言い、それを聞いただけで信じて帰った彼の信仰については何も記していません。主の言葉通りに死にかかっていた病人が癒されたことでは同じなのですが、ヨハネはその事よりも、主が言った時間に癒されたから彼が信じたと強調することによって、主が「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と言った言葉にどんな意味が含まれていたのかを明らかにしています。神の御心を告げることは大切で素晴らしい働きなのですが、その言葉か御心なのかどうかは聞く人には分かりません。それに対し、病の癒しは歴然としています。解釈の入る余地なく、神の存在の確かさを見る人に示すからです。故郷の人々もイスラエルの民ですが、彼らは特に預言者の人となりをよく知るので、その思いで預言者を見、御心を告げる預言者として尊べなくなってしまうからです。

 先月は、イスラエル人が神の民と見ていないサマリア人達が、イエスの言葉を聞いてイエスをキリストと信じたと学びました。この役人もイエスの言葉を信じて帰りました、でも確信ではなく、藁にもすがる思いだったのです。確信出来のは、息子の病気が主が治ると言った時刻に治ったと知ったからです。ですから、最初の信仰は真の信仰とは言えないとヨハネは教えるのです。彼は、主が最後にトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」と言ったように、見ないで信じる信仰こそが真の信仰と教えます。私達は十字架に掛かって死に、三日後に復活し、今も生きて働いている主を見ていません。でも、見ないで信じる者となり、今、その主を御霊と真理を持って礼拝しています。主の弟子達は2:22にヨハネが記したように「イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子達は、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばを信じ」ました。彼らは目の前に主がいなくても、かつて聞いた主の言葉を思い起こし、聖書、旧約聖書で預言されていた事、主が言った言葉を信じたのです。今は、イエスは十字架と復活の主と信じるなら、聖霊が助け、全ての人に真の信仰が与えられます。ですから私達も主イエスを私達の救い主と信じ、恵みと平安を与えられ、喜んで生き生きとこの世に生きています。

 さて、ヨハネが「これを第二のしるしとして行われた」とわざわざ付け加えたのはなぜでしょう。それは、人として生きる主イエスが栄光に輝く神の御子であることを、目に見える二つの奇跡で特別に現したからです。人々はその霊的真実を自分達の目で見て、紛れもない事実として体験しました。実はこの世に生きる私達も、世で体験する様々な出来事に、主ご自身の栄光を聖霊に助けられて心で見ることができるのです。ルカ17:21で主が言うように神の国は私達の只中にあるからです。私達はイエス・キリストが生きて働く御国に生きています。この事を信じ、真の信仰者として世に生きましょう。