メッセージ(大谷孝志師)

将来と希望を与える主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年7月24日
聖書 エレミヤ29:10-14「将来と希望を与える主」

 エレミヤは紀元前7世紀の前半にイスラエルの南ユダ王国で活躍し、旧約聖書にその名がある預言者です。今日の聖書箇所は、彼がバビロンに捕らわれて行った人々に書き送った手紙の一部です。この時、イスラエル民族の主だった人々、当時の人口の6%位でしたが、彼らが捕囚としてバビロンに連行されたことにより、南ユダ王国は滅んだのです。その約150年程前に北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされていて、イスラエル民族は祖国を失ってしまいました。イスラエルの人々にとっては辛く苦しいことでしたが、自業自得だったのです。実はそこには、形だけの神の民になってしまったご自分の民であるイスラエルを真の神の民とする為という神の御心があったのです。

 イスラエルは紀元前13世紀に、モーセに率いられてエジプトを脱出し、神が与えると約束したカナンの地に神に導き入れられました。そこには先住のカナン人等がいて、モーセの後を引き継いだヨシュアに、その後はギデオン、サムソンと言った士師に率いられて彼らとの戦いを繰り返しながら、領土を獲得していきました。人々が王を望み、神が望みに応え、王を与えたので、イスラエルは王国となりました。そしてサウル、ダビデ、ソロモン王の元で栄華を極める国となったのです。しかし聖書にはその後、絶えず悪に誘惑され、偶像礼拝に陥り、主が遣わした預言者の声に聞き従わず、主の裁きを受けて、周囲の強大国に滅ぼされたと記されています。南ユダの人々が捕らえられて行ったバビロンは異教徒の地でしたが、バビロン王は被征服民の宗教には比較的寛大でした。しかし、異教の地での生活は厳しく、様々な誘惑や試練に遭っていました。その中でも、人々は悔い改め、何故こうなったかを反省し、御心を尋ね、聖書の編纂等を始めたのです。彼らは真の信仰に立ち返る道を歩み始めました。そのように真剣に主を信じ、主に求めようとしているイスラエルの人々に主の御旨を、主が彼らの為に立てている計画を知らせているのが今日与えられている主の御言葉なのです。

 バビロンにいる彼らが、いつ迄この状態が続くのかと不安を抱いていたので、主は、自分の民に故郷の地ユダヤに帰らせる時が来る、とエレミヤに伝えさせました。彼はその不安の中にいる人々に、70年が満ちる頃、主が彼らを顧み、慈しみの約束を果たして、彼らを故郷に帰らせると伝えたのです。伝道の書3章にあるように、全ての事には定まった時期があり、始めがあり終わりがあるのです。その事を信じ、今は自分達はこれをなすべきと主が定めて与えた時なのだから、置かれている状況の中で、主に喜ばれる者として今を生きれば良いと、彼らは気付かされたのです。私達も全てのことには時があり、始めと終わりがあると知り、今の時を力強く生きる者に成りましょう。

 主は、バビロンで捕囚生活を送るイスラエルの為に計画を立てていること、それは災いを与える計画でなく、将来と希望を与える計画なのですとエレミヤに人々に告げさせました。彼らが聖書を編纂し、御心を知ろうとしていたことは確かです。エレミヤにそう言われても何案の保証もありませんでした。

 しかも、エルサレムに帰れるのは70年後なのです。平安にはほど遠く、将来に希望も持てない過酷な捕囚生活が続くのです。エジプトを脱出し、約束の地カナンに入る前の荒野の放浪生活でさえ40年でした。その倍近い年月を耐えなければならないのです。聖書は、自分の思い、感覚で今を見、将来を考えるのでなく、主の御言葉を、主の計画を信じれば良いと、私達に教えます。そして70年の年月を経て、主が言った通りになりました。彼らはエルサレムに戻り、神殿を建設したのです。イザヤ書40:7,8に「主の息吹がその上に吹くと草はしおれ、花は散る。真に民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」と有ります。確かにこのバビロン捕囚は、罪を犯したイスラエルへの神の裁きです。イスラエルの人々は、主の激しい熱風のような息吹により枯らされ、人間的に見れば正に混沌の中にあります。

 しかし、主は平安と将来と希望を与える計画を彼らの為に既に立てているのです。イザヤが言うように「私たちの神のことばは永遠に立つ」のです、神のことばは確かなものであり、必ず実現します。神は真実な方だからです。

 私達にも「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」「御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つ」とのみ言葉が与えられています。神の約束は真実で、必ず実現すると信じています。しかしその信仰に堅く立っているでしょうか。何故、神の言葉である聖書が私達に与えられているのか考えてみましょう。エレミヤが預言者としてイスラエルの人々に遣わされたのは、神の民である彼らに自分達の真の姿、神の御心を知らせ、今をどう生きたら良いかを知らせる為でした。彼らは、エルサレムを遠く離れた異教の地で、主に求め祈っても直接答えてくれない現実の中で、心細いものを感じていました。今私達は、米・露・中などの軍隊に侵略、征服され、自由を奪われていません。しかし、私達は自由で平安でしょうか。感謝と喜びに満たされて生きているでしょうか。地域や家族、友人知人の救いを、教会の内外にいる肉体的精神的痛みに苦しむ人々の癒しを、主に求めても実現していません。礼拝堂に溢れるばかりの人が来て礼拝するようになるよう求めても、実現せず、主の救いの御業が停滞しているとしか思えない状態です。でもその理由と原因が私達の内にあると気付いているでしょうか。

 罪の誘惑に弱く、心が主から離れがちで、神の言葉に無意味さや心細さを感じている自分ではないでしょうか。そして、現状を人のせい、神のせいにし、不満をぶつけることで自分を誤魔化し、諦めていないでしょうか。それは後ろ向きの人生です。主は、主を信じる人に前向きに、感謝と喜びを持って生きて欲しいと望んでいます。主は今日のみ言葉をそんな私達に向けて語っています。

 私達が現実をどう見ようとも、既に主は私達の為に主の偉大さに相応しい栄光に満ちた計画を立て、必ず実行します。確かに求めるもの、今必要と思うもの、こうなって欲しいと願い続けてきても、得られていないことは数多くあります。しかし、今私達がなすべき事は、諦めることでも、後ろ向きになることでもありません。主の計画と御力を信じ、主の為、隣人の為になる事を誠実に行い、主が実現させると信じて行動することと知りましょう。