メッセージ(大谷孝志師)
真の祝福を受ける人に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年7月24日
ルカ17:11-21「真の祝福を受ける人に」 牧師 大谷 孝志

 「喉元過ぎれば熱さ忘れる」という言葉がある。吐き出したい熱い物でも、喉を過ぎると熱さを感じなくなることから生まれた言葉です。今日の個所のツァラアトに冒された10人の内9人が正にそうでした。この病気の人は神の裁きを受けた汚れた者として、ユダヤ社会から排除され、通りを歩くときは大声で叫びながらこの病人であることを知らせながら歩かなければならず、辛く苦しい毎日でした。だから、主イエスが近くに来たと知り、イエスを出迎えたが、遠く離れた所に立ち、声を張り上げ、主イエスに憐れみを求めなければなりませんでした。主は彼らの姿を見て「行って、自分の体を祭司に見せなさい。」と言われます。彼らは行く途中で、病変が消え、自分達がきよめられたと知ります。しかしその内の一人だけが、癒されたと知り、大声で神を讃美しながら引き返してきて、主イエスの足許にひれ伏して感謝しました。9人は癒され、辛苦の日々が嘘のように消えた時、何故消えたのかよりも、消えた喜びで胸が一杯になったのです。しかし私はこの9人を笑えませんでした。彼らこそ、私自身の陥り易い姿を暗示していると気付いたからです。

 聖書は何故、9人が主の元に帰ってこなかったことをこのように強調したのでしょうか。主イエスの愛は広く深い。主は、私の名によって求めるなら、父は何でも与えると教えられました。だからマタイ7:7で、求める者は与えられ、捜す者は見出し、叩けば開かれると教えました。しかし、自分に与えられた恵みを当然の事として受け取り、イエスに心新たに向き直り、感謝する者が少ない現実があります。これは、そのような私達に自分を省み、正しい道を見出す道があると気付かせる為の強調と言えます。

 旧約の昔、大洪水の後、箱船から出たノアが最初にしたのは、祭壇を築くことでした。アブラハムもイサクもヤコブも、新しい事態に直面する度に初めにしたのは、自分達を導き、祝福を与える主を礼拝する為に祭壇を築くことでした。主の御名を呼び、感謝する特別な場所を設定するのは、彼らにとって欠かせないことだったのです。

 一人だけが主イエスの元に帰り、ひれ伏して感謝しました。他の九人は心で感謝はしたと思います。しかし癒されると今までできなかったことが、あれもこれもできる考え、その事に心が向いてしまいました。彼はそうではなく、感謝を先ず主に伝えたのです。

 私達に必要な事はまず心に祭壇を築くことです。時間的、精神的に礼拝出席が不可能な時も、主を礼拝する定まった時と場所を造りましょう。暇ができたら主に感謝しようとおざなりにしないで、主への感謝の時を私に必要な時として大切にしましょう。

 主の所に戻らなかったから、九人がまたツァラアトに冒されたとは聖書に書かれていないでしょう。聖書を読むと分かりますが、主は罰を与える奇跡はしない方です。広い心で人々を愛し、包み込む方です。しかし、聖書はここで大切な事を教えています。帰って来た人が「あなたの信仰があなたを救った」と主に言われ、真の祝福を受ける者になりました。主は、人がご自分の所に来て、直接感謝の思いを伝えるのを待っておられます。 願いが叶った。やはり主は生きている。私を愛している。それを知って喜んでいるだけでは、私達は真の祝福を受ける者はなれません。主は「神の国はあなたがたのただ中にある」と主は言われます。主はこの教会の礼拝の中に、私達が今礼拝しているこの時、この場におられます。私達は、受けるだけで、主に感謝することを惜しんではいけません。自分の心が今どこに、誰に向いているか、自分を省みてみましょう。 私達は今神の国にいる。主の愛と恵みの世界にいる。その事を心から感謝し、神から真の祝福を受け、神に感謝しつつ、喜んでこの世に生きる者になりましょう。