メッセージ(大谷孝志師)
答えの前に私はいる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年7月31日
ヨハネ14:15-18 「答えの前に私はいる」 牧師 大谷 孝志

 私達は、主イエスを信じ、救われていても、時に動揺し、不安になり、恐れる。先の事が分からないから。自分がどうなるか知りたくて、占いに頼る人も多い。しかし、死ぬ日と様子を知ったら全ての希望を失うのではないか。分からないから未来を夢見て、現在を頑張れるのでは。人はそうだが、主イエスは違う。先の事を確かな事として語る。何故か。主にとっては未来、つありまだ来ない事ではなく、将来、将に来たらんとしている事だから。人も確かに将来の事を語れる。しかし人の場合は、要望であり、希望に過ぎない。不確定。ペテロも最後の晩餐の後、主の為なら命も捨てると言い切った。人は言葉だけなら何とでも言える。彼は主の言葉通り、三度主を知らないと言ってしまう。

 私達は教会に来て、この世にいて様々な知識を得たが、分からなかったことを知った。主イエス・キリストが昔、十字架に掛かって死んだ人ではなく、復活して今も生きていると知った。それだけではない。私が今生きているこの世界は、実は主イエスが全てを知り、その意思通りになる世界、つまり神の国、万物の創造主である神が支配する世界と知った。そしてその神を人は天の父と呼べるとも知った。実は、旧約聖書では、人は神を「イスラエルの神、万軍の主」と呼び、神には民は「アブラハム、イサク、ヤコブの子孫」でしかない。イエス自身がアバ(父さん)と呼び掛け、弟子達に神は天にいるあなたがたの父だから、神に祈るときは「天にいます私たちの父よ」と祈れと教えた。

 私には教会に来る前、教会に行っている友人に「教会では神様に点のお父様と呼び掛けるのよ」と言われ、教会って不思議な所だなと思った記憶がある。福音に触れなければ、誰も神が天にいる自分の父とは分からない。何故か。それは「見るには見るが知ることなく、聞くには聞くが悟ることはない(マルコ4:12)。」から。それにしても人は何故神の子どもになれるのか。それは神が人に特別な「いのちの息(創世記2:7)」を吹き込んだから。人は自分の意思でしたいと思う事を自由にできる。しかし、それが御心に沿わなければ裁かれ、従わなければ人は滅ぼされる。最初の人アダムとエバは、神が禁止した事を行い、神と共に生きていたエデンの園、神の国から追放された。彼らは園の中央にある木の実を神が禁止した事を行えばどうなるかを悟れなかった。そして人は神の子の資格を失い、滅びへの道を歩む者となった。私達も主イエスを信じ、救われるまでは、何が善で何が悪か、何を神は喜び、何を嫌うかが分からず、滅びに至る門への道を歩んでいた。在る時、教会の宣教により十字架と復活の主を知った。福音を聞き、主イエスを信じる者となり、神の子達の一人となり、いのちの門に至る道を歩んでいる。しかし、主に選ばれ、弟子され、主と共に歩んでいたペテロでも、先の事が分からず、大見得を切り、主が言ったとおり、主を裏切った。彼は十字架と復活の主により、新に新しい人に変えられた。彼は共に歩む主が、神の子、キリスト救い主と分からなかった。私達は、主イエスがどんな方かを、自分が神の子であることを本当に分かっているか。主は15章で「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人が私に留まり、私もその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と言う。聖書は、私達が主イエスを信じ、救われていても、動揺し、不安になり、恐れることの多いのは、主に繋がっていないからと教える。主に繋がるとは、神の独り子イエスに繋がり、神の子である自分を意識して生きること。そうすれば、私達の天の父は必要な時に必要なものを与え、恵みと平安を与える。ここに答えがある。私達はその答えの前に立っているのに気付かない。心を鎮め、主に祈り求めつつ、聖書のみ言葉に耳を傾けよう。自分が答えの前にいると気付けるから。