メッセージ(大谷孝志師)

主に友として招かれた私達
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年8月7日
聖書 ヨハネ15:11-17「主に友として招かれた私達」

 先ず私自身の主イエスとの関わりを振り返ってみます。都立上野高校一年の時、母の勧めで教会に行き始め、高二の四月に信仰告白をし、バプテスマを受けました。関東部会の修養会で先輩の献身の証しを聞き、その秋に献身を決意し、牧師も喜んでくれ、家に来て両親に私の決意を伝えてくれました。母は、私が17歳の時に、一人息子の私が自分から取り去られるとのお告げを受けていたので、やはりそうかと思い、納得してくれたそうです。しかし半年で止めました。御心とは思えなかったからです。しかし高三の秋の教会の祈祷会で御言葉が示され、光りに包まれ、再決心し、関東学院神学部に入学しました。70年安保に伴う学園紛争の最中、大学院の時に神学生として奉仕ししていた教会の女性と結婚、転入会していたその教団川崎新生教会伝道師に招聘され、就任しました。一年後、25歳で宮城県と岩手県境の僻地にある同盟の錦織教会の伝道師、付属の錦織保育園長に就任しました。職員は皆年上でした。その後、牧師となる按手礼を受けました。その後、最初の妻が召天、二年後に再婚、大阪池田教会牧師、私の母教会柏教会副牧師、牛久伝道所牧師に就任しました。しかし再婚の妻がやはり癌に冒され、療養のため辞任、無任所となりました。妻の召天三年後、愛知県野並教会牧師に就任、二年後に現在の妻智子結婚、その後岡山伝道所、大阪新生教会、広島平和教会牧師を経て現在、この教会の牧師です。子供は最初と二度目の妻との間の四人と愛美。上の子供達は独立して関東で生活しています。それがこれ迄の私のキリスト者人生です。

 人は皆生き方が違い、主イエスは各自に相応しい人生を用意し、歩ませています。私も紆余曲折を経、その時々に、様々な楽しみや苦労をしてきました。夢中でしたが、どんな時にも主が守り、導き続けて下さっていたから、ここまでやってこられたと感謝しています。

 76年の人生です、様々な人と接し、色々な事件に直面し、自分の事、他の人の事で悩み、苦しむこともありました。しかしある時、受浸していない方が、教会に来ると世間を離れた清々しい気分を味わえ、ホッとできると教えてくれました。やはり別な方が、教会は物事の裏を考えずに見聞きできるので安心とも言いました。牧師をしていても、人間関係の泥臭さや嫉妬心に嫌気が差したり、お山の大将になりたい人や自分は駄目だと引き籠もってしまう人に、多くの力と時間を取られたこともありました。その経験の中でも、それに縛られ右往左往しないで済みました。それが、主が共にいると信じる者の良いところと実感しています。

 何故でしょうか。キリスト者は安心して人を愛せるし、他人の愛を安心して受け入れられるからです。過去に、人の好意を信じ、人に甘えて落とし穴に落ちたことがあります。不安になり、将来を考えるとどうして良いのか分からなくなりました。しかし私が信じ、従っていた主が状況を変え、道を開いてくれたのです。世の人には不思議でしょうが、主を信じていると、落とし穴が落とし穴でなくなるのです。何故でしょう。先週は讃美と証しの主日礼拝でしたが、主が私達の全てを知り、愛し、主は私達を友として、また、兄姉を主の友同士として、共に生きる者とするからです。祈り合い、支え合える友がいるからです。失望も諦めもさせず、状況を変化させ、希望をもって恵みと平安の道を歩ませる主がいるからです。

 人は自分だけだと思うと、先の事、相手の心が分からず、不安や恐れを抱いてしまいます。しかし、主を信じていると、主が祈りの中、或いは聖書や兄姉との交わりの中で、必要な事を知らせてくれるのです。しかし、自分は一々主に知らせて貰ったことがないと言う人がいるかもしれません。しかし教会で皆と一緒に礼拝したり、交わりの時を持っていると、何となく落ち着く気がしないでしょうか。主が私の友となって私と共にいて、互いを友として受け入れ合えるようにしているのです。ですから、教会に来ると互いにホッとするのです。しかし、兄姉も人間なので、相性が合わなかったり、冗談が皮肉や批判的言葉に聞こえたりすることがあります。でも、主イエス・キリストという素晴らしい友がいると思うと、他人がどんな態度に出ようと、自分は自分、相手は相手と割り切れます。主を信じていると強くなれるのです。自分は孤独ではないからです。とは言え、人はそのように、ただ安心して生きられれば良いと言える程単純ではないと言う人もいます。確かに、自分に存在価値があると思うことや生き甲斐も必要です。ですから、自分の方から教会に自分の居場所を見つけたり、自分にはこの教会が必要だと思えることを見つけようとすることも大事なことです。

 でも、自分は教会の為に何もできないから、行けないと言う人がいました。教会という所は、献金できなくても良いし、極端に言えば、座っているだけで十分なのです。その人が喜ぶ姿を見るだけで、他の人々が励まされ、喜ぶ、それが教会の交わりの良い所なのです。

 今日の個所の16節は、教会に来ている私達に向けた言葉です。誰であろうと、教会に来ているのは、主イエスが大切な自分の友に選んで招き、来るようにしたからです。主の体である教会に必要だから私達はここにいるのです。自分で来たと思う人もいるでしょう。でも、私達は招かれたのです。それだけではありません。主が使命を与えているのです。私は何もできないと思う必要は全くありません。居るということは主の方に目的があるからです。

 人は世に生きている限り、自分や人の為、世の為に何かをしています。そこに生き甲斐、生きる意味を見出しています。しかし、自分の努力が徒労に終わったと感じ、空しさに囚われる時があるのではないでしょうか。しかし私達は主に使命を与えているのです。言葉を換えると、主は私達に生きる意味を持たせているのです。ですから教会に居ると、何かをしている筈です。そして、それは実を結び、その実は残ると主は言います。教会は神の国、神が全てを支配する世界なのです。ですから誰でも、他の人々に影響を与え、喜びを与えられると主は言います。主が私達の友で、私達に寄り添い、励まし、慰め、力を与えるからです。

 私達は、自分の人生も教会の歩みも十年一日の如く感じ、何をしても変わらないと思ってしまうことはないでしょうか。しかし、自分に出来る事をして前に進みましょう。主は、この世の人々が救われる為に必要だから、ここに向島キリスト教会建て、私達を選んで、招き入れたのです。そして、友として私達一人一人を見つめています。私は優しく、時に厳しく自分が見つめられていると感じています。主は、私達が御業を行う為に主の名によって父に求めるなら、父は求めるものを全て与えると約束しています。今朝は御言葉を通して、私達がそのような教会という素晴らしい所にいると知らされました。主に感謝し、主の恵みと主を信じる素晴らしさを味わいながら、主に友とされた者同士として共に歩んで行きましょう。