メッセージ(大谷孝志師)

今も働き続ける主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年8月14日
聖書 ヨハネ5:1-18「今も働き続ける主」

 今日の箇所のベテスダは、エルサレムにあった池の名前です。ベテスダは「憐れみの家」という意味です。元来はベツサダだったのですが、その池に入ることで病気が治るとの噂によって、この池がベテスダと呼ばれるようになったと考えられています。発掘調査の結果で分かったのですが、この池は双子池で、北の池からの水路によって南の池や川に水が流れるようになっていました。水が流れて来た時に水が動いたようです。3節後半から4節を新共同訳は末尾に、協会訳は( )内にあり、新改訳は欄外にあります。この部分が有力写本にはないからです。それは7節の説明なのですが、このような迷信を事実として記すのは聖書に相応しくないけれど、そのような迷信に頼ってしまうのが世の人の常なので、その間違いを示すのも聖書の使命と示され挿入した人々と、それでも反対した人々がいたからです。
 このような迷信に囚われている人の救いの出来事をを取り上げることで、主がどのように対応する方であるかをこの箇所は私達に教えています。聖書には数字が良く出て来ますが、この38年は非常に長い期間を強調するだけで、重要な意味は無いと考えられています。主は恐らく過越の祭にエルサレムに来た時、大勢の病人が池の近くにある七つの回廊に横たわっているのを見ました。主は人々の間違いを正す為に、その中の一人の病人を選び、彼の病気を治します。主は常に、この時何をどうすることが正しいかを知る方なのです。

 主は彼を見て、既に長い間そうしているのを知り、「良くなりたいか」と聞きます。主は、人の心、状態を洞察する力ある方です。主は、私達が祈り求める前から何が必要かを知る方と信じましょう。しかし、彼は治りたいと思うからこそ、長い間そこに横たわり続けていたのです。いくら何でも、「良くなりたいか」は当たり前というか、馬鹿にしている感じさえしないでしょうか。でも違います。主は、彼が本当に良くなりたいと思うなら、ここで横たわっているよりも良い方法があると教えたのです。主は私達にも「生きたいのか」「充実したい、満足したい、安心したいのか」と、問い掛けられていると気付き、反省しましよう。

 彼の主への答えの中に、弱い者同士が争い合う悲惨な情景が描かれています。この世は実力が人生を左右する世界。弱肉強食の世界とも言えます。弱い人は無視され、放っておかれているのが現実です。しかし、主イエスはそのこの世という世界に生きる人々を見て、何故願いが実現しないままなのかを知っています。私達はそのような主イエスを信じています。

 主はこの病人が願い求めていた事を実現する方として彼の前に立っています。彼が求めたのは、池の水が掻き回された時に、自分を水の中に入れてくれる人です。そうすれば自分は良くなると信じていたからです。しかしそんな人は現れなかったのです。彼は自分に語り掛けた人がどんな方かを知りません。彼はその人に癒しを求めていません。しかし、主は彼に「起きて床を取り上げ、歩け」と命じました。そして彼は、その言葉通りになりました。

 さて、この病人が癒されたのは安息日でした。勿論主は、安息日と知っていて彼の体を治し、床を取り上げさせたのです。しかし、この事を知ったユダヤ人は「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されてはいない」と彼を責めました。ユダヤ人は神を信じて礼拝し、神に喜ばれることを第一にしている人々です。何十年も歩けずに苦しむ人が癒され、歩き回るのを見て、これは偶然でも悪霊の仕業でもない、神がした事とは思った筈です。しかし神がしたかもしれないけれど、神が安息日に禁じた事をしてはならない。彼がした事は癒した神の御心に反することだと考え、彼を責めたのです。現代の私達がこの奇跡を目撃したらどう反応したでしょうか。勿論この人を責めはしないでしょう。でも御前にひれ伏すでしょうか。半信半疑で、これには何か別の理由があると考えるでしょうか。私達は、身近な人々の為にどんなに祈っても癒しの奇跡が起きない現実の中では想像するしかありません。しかし、この記事が聖書にあるのは、事実起きた事だからです。これを通して主は私達に信仰について教えています。聖霊の助けを得て、主が語り掛け、教えていることに耳を傾けましょう。

 この病人は迷信を信じていました。それに、彼は主に癒やしを求めなかったし、信仰も告白していません。それだけでなく、彼は癒した方が誰かも知らないのです。でも、主は彼を癒しました。この後、主は彼を見つけたのですが、彼の信仰を問題にしてもいません。それどころか「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません」と諭したのです。

 何故主はそのような彼を癒したのでしょうか。彼が迷信にすがり、治癒を願いながら癒されず、長い間苦しんでいたからです。主は迷信に頼る者を罪人して裁く方ではありません、迷信に頼らざるを得るようにすることで罪を犯させる悪の力を取り除き、救い出す方なのです。ですから主は「もう罪を犯してはならない」と彼に言ったのです。彼は神の力を自分の内に感じ取り、病気を治しただけでなく、自分をきよめたと知ったのです。そのように御力をもって自分を癒した方がイエスだと知り、そのことをユダヤ人達に伝えました。それを知った彼らはイエスを迫害し始めました。安息日の禁令を破ることは、明らかに神を冒涜することだったからです。しかし聖書は、主が目的をもってこの事をしたと教えているのです。

 ユダヤ人に安息日の真の意味を教える為です。十戒には「いかなる仕事もしてはならない」と有りますが、日常する事を休み、主の日、聖なる日として大切にせよとの戒めなのです。神の民が日常に埋没せず、週の七日目にこれ迄の主の守りと恵みを思い、主を礼拝する日です。しかし彼らは、形式を整えることだけを考え、その戒めに振り回され、その真意、大切な意味を忘れていました。主は神の民が真理と御霊をもって父なる神を礼拝する群れとなる為に世に来ました。忘れている安息日の真の意味を心に刻み直させる為に、主がこの安息日に病気を治し、床を取り上げさせたのです。そして、神が今に至る迄、事実と人に判る働きをし、主がその事を明らかにする為に御業を行っていると知ることで、彼らが神の民として、神との正しい関係を取り戻せるようにしたいとの主の思いがここに有ったのです。しかし彼らは、それ迄の安息日の因習を捨ててることが出来なかったのです。この病人が治ったのは、神が働いているから、イエスが御業を行ったからなのに、その主を殺そうとし始めたのです。

 神は全ての人を愛し、御子イエスの十字架の死の贖いより、真理を知らず、罪を犯す人の罪を赦し、人々を罪の世界から救い出す為に今も働き、復活の主「キリスト・イエスは、昨日も今日も、とこしえに変わること」なく働き続けています。その真実を知らせ、主の証人として、地の塩、世の光となって主を証する働き人となることが私達に求められています。