メッセージ(大谷孝志師)
トマスと私達
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年8月14日
ヨハネ20:24-29「トマスと私達」 牧師 大谷 孝志

 トマスの言動はヨハネの福音書の復活に関連する出来事の中に記されている。

 最初は、11章のラザロを主イエスがよみがえらせた出来事。彼は霊の体に復活したのではない。但しこれは、御父の力によって、死がこの世での絶対的終わりという事実を、主イエスが覆した最初の出来事。ここでトマスは「ラザロは死にました。さあ、彼の所に行きましょう」と主が言うのを聞いて「私達も行って、主と一緒に死のう」と仲間の弟子達に言った。彼は主が、死んで何日も経ったラザロを生き返らせるとはまだ信じていない。主が死を覚悟して行動してると思い、弟子として主と行動を共にし、一緒に死ぬのは当然と考えた。だから彼は、衝動的でも軽挙妄動の人でもなく、むしろ誠実果敢な人間だったと言える。次は、14章で主がご自分の死と復活の意味を教えた時。主が「私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言うのを聞き「私達には分かりません。どうしたら、その道が判りますか」と言った。主がこれ迄十分に教えたのに、自分達には分からないから教えて、と頼んだ。人は御霊の助け無しには真理を悟れない。

 例えば、教会に暫く来続けてる人に「主はあなたの主で救い主ですよ」と言っても「分かりませんよ」とその人が答えるのと同じと私は思った。真実を知る信徒そう語り掛けても、まだ聖霊の助け導きを受け入れていないその人は、自分が主を信じ救われる道を歩んでいるのに気付けないのと同じだと。その人もトマスも無知でも鈍感でない。誠実な人。だから彼がトマスのように「どうしたら分かりますか」と、主イエスに心を向けて求められるよう信徒自身が祈ることが大切。

 次が、今日の個所、イースターで学ぶ箇所。主は週の初めの日に復活し、戸の鍵を掛けて閉じ籠もっていた家に入り、弟子達の真ん中に立ち「平安があなたがたにあるように」と言った。彼らは主を見て喜んだ。しかしその時一緒にいなかったトマスは彼らに、自分ならはっきりとした証拠を見ない限り決して信じないよと、相手を軽蔑するような言い方で、自分の立場を守ろうとした。人は自分が皆と同じ経験が出来なかった時、後悔や妬みが生じ、きつい言葉が出てしまう。取りようによっては彼は正直と言えるが、ムキなってしまったのは確か。私達も、こんな時、自分の正直さが裏目に出て、人を傷付けないよう自戒する必要がある。

 さてその八日後、次の週の初めの日に、堅い殻の中に閉じ籠もったままの弟子達の所に、そのトマスの為に主が再び来た。主は彼らに「平安があなたがたあるように」と言った後、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と言う。主イエスは、人が「信じない者ではなく、信じる者になる」為ならば、何事も惜しまない方だと知らされる。主は世に生きる一人一人を愛し、その人に必要な事をする方。だから、私達は教会に来る事が出来、主イエスを自分の救い主と信じることが出来、キリスト者として今も生きている。彼は主に対して誠実であろうとし、自分にも誠実であろうとした。分からない、理解できないから何もしないのではなく、主の言葉の意味を正確に知りたい、主に心から従う者になりたいから、そのような言動をした。人の知恵と力には限りが有る。全てにおいて有限な存在。自分の考えが全て。だから、その有限性と自己中心性を自覚し、その自分に誠実に生きよう。そして見えないが共にいる主を信じ、求め続け、分からない事を主に尋ねよう。「見ないで信じる人たちは幸い」と言う主が、私の将来への道を既に備えているから。