メッセージ(大谷孝志師)

光の中を生きる喜び
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年8月21日
聖書 コロサイ1:9-14「光の中を生きる喜び」

 パウロはこの手紙の挨拶を終えると、先ず、自分がコロサイ人の為に祈り求めている事と、何故人である自分が神にそれを求められるのかを記します。

 彼は同労の僕、愛するエパフラスから、この教会の人々が福音を本当に理解して、福音が実を結び、豊かに成長していると聞いたと先月学びました。彼はそれを聞いて喜びに溢れ、彼らの為に祈る時はいつも神に感謝していました。そして絶えず、彼らの為に祈り求めていました。その内容をここに記しています。それは彼らだけでなく、今の私達にも本当に必要な事です。

 その第一は、彼らが「あらゆる霊的な知恵を理解力によって、神のみこころについての知恵に満たされる」ことです。これは私達の信仰生活においても重要です。信徒にとって、神の御心についての知恵に満たされることより幸いなことはありません。信徒であれば誰もが求める事ではないでしょうか。しかし、聖書を読み、祈り求めても、これが御心との確信を持つのは人には非常に困難です。勿論推測は出来ます、でもそれは希望的観測に過ぎません。しかし彼が彼らに為に求めているこの知恵こそが、信徒の信仰生活に欠かせないものなのです。しかも求めれば与えられるものなのです。それにもう一つ理由があります。彼は、彼らの内に霊的な知恵と理解力を与える御霊の働きがあると知っているからです。ですから、彼らの為に祈り求めるのです。

 私達も突然、み言葉やなすべき事、出来る事に気付かされる事が有るのではないでしょうか。それが御霊の働きなのです。この教会の人々もこれが御心と信じて、自分達の務めを行っていたでしょう。しかし彼は。そこにはもう一つの祈りが必要と知っていました。彼は彼らが信徒であっても、世に生きている限り、様々な悪の誘惑にさらされていると知っています。ですから、信徒として正しく生きるには、主を模範として生きることが大切になります。それは、人は正しく生きようと思っても、拠るべき基準がないと、自分の欲求を満たす方に傾き易いからです。ですから、主に相応しく歩みなさいと彼は教えます。模範があるのです。聖書が教える主イエス・キリストの生き方、人への接し方、人の受け入れ方、愛し方を知り、主のように生きようとするなら、主に喜ばれる生き方が出来、信徒として成長できるのです。しかし、人としての生き方、働きなので限界があります。どうしても自分の願望や好き嫌いが入ったり、自分で限界や壁を作ったりしてしまうからです。だからこそ、神が与える霊的な知恵と理解力が必要なのです。それによって良い業を行うことができ、それが実を結ぶことによって、彼らが御業を行えたとの充実感をもって生きられます。そうなるよう、彼らの為に祈っているのです。私達もそうですが、主を信じ、主の僕として御業を行おうと思っていても、人としての限界を感じてしまい、尻込みしがちです。私達も主を模範にし、御霊の助けを信じて生きられるよう、主に祈り求めることを心掛けましょう。

 だからこそパウロは、コロサイの人々の主にある働きが実を結び、信仰が成長する為には、彼らが強くされることが必要と知って、祈るのです。人は弱く、良い事をしたいと思っても出来ないことが多いのではないでしょうか。人には、自分の力や洞察力、判断力に、超えられない限界があるからです。
 それだけではありません。自分が正しいと思う事を喜んでしたとしても、皆が正しいと思うとは限りません。逆に不必要、間違いと思われてしまうことすらあります。しかし、主を信じているなら人を恐れる必要はありません。信徒には御霊の助けがあり、霊的な知恵と理解力が与えられているからです。この事実にしっかりと立ちましょう。主はその私達を支えてくれます。何故なら、私達は神の栄光の支配の中に生きるからです。この世はパウロが13節で言うように、闇の力が支配している世界です。これは認めざるを得ません。しかし信徒は父なる神により、そこから救い出されて、愛する御子の支配の中に移されています。ですから正しいと思う事が出来、それが実を結びます。

 神は私達を含むこの世の真の、そして絶対的支配者なのです。ですから、私達には必要な時に必要なものが与えられているのです。私達には信仰と希望と愛が与えられています。私達は、私達に御子を与える程に愛した父なる神の愛と御子の働きを通して示されている御力を知っています。それだけではありません。福音書を通して御子の忍耐と寛容を知らされています。その主イエスがご自分を捨て、ご自分の十字架を負って歩み、最後まで御父に従ったように、私達も自分を捨て、十分の十字架を負って、私に従えと言います。それが私達自身の為に、私達の周囲にいる世の人々為に必要だからです。

 その為に、パウロはこの教会の人々の為にこの手紙の初めに祈っている事と書いたのです。彼らが御心を行う者となれるよう、どんなことにも忍耐し、寛容でいられるよう祈っています。主は十字架の死を前にして「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました」と弟子達を励ましました。そして、この世に勝利し、復活し、ご自身を現した主の言葉がマタイ28:18-20に記されています。「私は天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしが命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」と。

 私達は自分の家族、友人、知人に福音を伝え、その人々が救われる為に働く使命を与えられているのです。でも、その道のりはとても長く、厳しいです。だからこそ主のみ言葉を、約束を信じましょう。見えるものに惑わされずに、自分の目には見えない真実なもの、それを心の目で見つめましょう。世の現実を見ると足りないものが沢山あると思ってしまいます。しかしパウロは、「光りの中にある、聖徒の相続分にあずかる資格」を父なる神が私達に与えていると教えています。主の豊かな富を相続できる自分に気付きましょう。それは希望に過ぎないのではと思うかもしれません。でも、絵に描いた餅ではありません。ヘブル11:1に「信仰は望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」と有るように将来必ず与えられるものです。

 確かに私達は弱く小さな群れです。でも「小さな群れよ、恐れるな。あなたがなたの父は、喜んで御国を与えてくださる」との言葉を知っています。勇気を出して、福音を伝え、救われた喜びを知らせましょう。私達は光りの世界に、私達を愛する御子主イエスが支配する世界に生きているのですから。主は必要な時に必要なものを与えると信じ、力強く世に生きていきましょう。