メッセージ(大谷孝志師)
己捨従人 傷付いた人の友に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年8月28日
ルカ10:25-37「己捨従人 傷付いた人の友に」 牧師 大谷 孝志

 今日の個所は、ある律法の専門家が「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができますか」と主イエスに尋ねたことに始まる。彼が専門とする律法は神に喜ばれる事、罰せられる事は何かが詳しく書いてある。永遠の命は神に喜ばれるものが受け継げるもの。何をしたら受け継げるかは、彼が知らなくてはならないことなので、他の人に聞くのはおかしいこと。しかしこれはユダヤ人にとって最重要関心事。律法の専門家達がイエスを試みようとしてこれを言ったのは、人々が主イエスの話を喜んで聞き、従っていることが面白くないので、変な説明をすれば、人々の心をイエスから離れさせられるかもしれないと考えたから。しかし、彼は見事にイエスに切り替えされた。何とかしようと、彼は「私の隣人とは誰ですか」と主に尋ねた。主は彼の問いに答えることで神を愛し、隣人を愛するとはどうすることか、隣人とは誰のことかを教えた。神を愛することはユダヤ人にとって至上命令で、生命線とも言うべき事。でもどうすれば神を愛することなのか、広すぎ、漠然としすぎて分かりにくい、この事が彼の質問の背景にあったことも確か。

 この譬え話、祭司とレビ人が、傷付いた人を見て、反対側を通り過ぎた。理由は書いてないが、自分の身に危険を感じたか、職務上特に汚れたものに触れられないという宗教上の理由があったのかもしれない。主は、どんな理由があったにせよ、彼らの行為は人として正しくないので、神は決して喜ばないのであり、サマリア人の行為こそ、人としての正しい行為で、神に喜ばれると教えている。

 彼にとって傷付いた人を助けることは一文の徳にもならない、自分も同じ目に遭う危険が。しかし彼はその人の友となることを選んだ。太極拳の極意の一つに「己捨従人」があると聞いたことが。自分の技量や勝利に執着したり、自分を守ろうとしていたら勝てない。自分の身を捨て、相手の動きの流れに身を任すことにより、勝利を得られるという極意。信仰生活にもこれに似た所が。神に喜ばれる生き方として主が正しいと認めた「自分の隣人を自分自身のように愛する」ことも、自分を捨て、相手の人に従うことになるのだから。サマリア人がその人に近付き、応急手当をし、時間を犠牲にして傷付いた人を自分の家畜に乗せて淀屋に連れて行き介抱した。後の事の為にお金を宿屋の主人に渡した。それらの一つ一つの事が問題なのではなく、彼がその人がして欲しいと思う事をした事、自分を捨て、相手の思いに自分を任せた事が大切な点と知る。なかなか出来る事ではないが、自分にできないと考える必要は無い。主はマルコ9章の悪霊に憑かれた我が子の癒しを求めた父に「信じる者には、どんな事でもできる」と言った。私達も主イエスを信じているなら、自分を主に任せることによって、相手に自分を任せることができ、このサマリア人のような事でもできる。ここに主の譬え話の要点がある。だから主はこの律法の専門家に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と聞いた。彼は「その人に憐れみ深い行いをした人」と答えた。私達は神を愛し、神に従えと教えられている。神を愛するとは人を愛すること。神に従うとは人に従うことと知ろう。「相身互い」という言葉が。武士同士は同じ立場であるから、互いに思いやりをして助け合わねばならないという教え。主の教えにも通じる。人は皆同じ立場だから助け合う仲間同士。

 自分を愛する為に人を愛するのでなく、安心して自分を愛するように人を愛する者になろう。主はそのような私達を喜び助け、共に生きる者としてくれるから。