メッセージ(大谷孝志師)

神の栄光に満ちた教会
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年9月4日
聖書 ハガイ2:3-9「神の栄光に満ちた教会」

 毎月第一週は、主に示された箇所の御言葉を学んでいます。今月はハガイ2:3-9です。ここには「主の言葉」「万軍の主の言葉」「万軍の主は言われる」と主の言葉の数々が記されています。バビロンという異教社会に捕囚の民として生活していたイスラエルの人々は、バビロンが滅び、次に台頭したペルシアのキュロス王の政策によって、ユダヤ帰還が許されました。ユダヤに戻った人々は、神殿の再建に取りかかったのですが、困難を極め、挫折を繰り返していました。しかし、ペルシアのダレイオス王第2年6月に預言者ハガイを通して、ここにあるように主の言葉が示されたのです。帰還した人々は過去の栄光に輝く神殿を心に描き、それを今に再現しようとしたのです。しかし彼らは現実の厳しさに意気消沈し、主の宮を建てる時はまだ来ていないと諦め、自分達の生活を守ることに逃げていました。しかし、捕囚の民にエレミヤを通して「都は丘の上に立て直され、宮殿はその定められている場所に建つ。(30:18)」と告げていた主は、預言者ハガイを通してみ言葉を与えました。ユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアと民に「わたしは共にいる」と。意気消沈していた人々を奮い立たせました。しかし神殿再建は至難の業、崩壊した神殿は彼らの目には、無に等しく見え、仕事は捗らなかったのです。

 しかし主はその彼らに再びハガイを通して励ましの言葉を与えたのです。そして「仕事に取りかかれ、わたしがあなたがたとともにいるからだ。あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがた間にとどまっている。恐れるな」と伝えました。主の言葉に励まされた彼らは、B.C.515年にエルサレム神殿を再建しました。

 再建は主の命令でしたが、人々が熱心に熱望し、祈り求めた結果でもありました。彼らは共に主を礼拝する場所、主が自分達の神として共にいることの見えるしるしとしての神殿を求めたからです。確かに心豊かに落ち着いて神に心しっかりと向けて礼拝できる神殿(私達の場合は礼拝堂)は必要です。それだけではありません。主は私達に福音を世の人々に伝える務めを与えています。神殿のように、礼拝堂は主が臨在する場所です。福音が語られ、世の人が福音に、先に招かれている私達を通して、主イエスに接することができる場所です。イスラエルの人々は、自分達が神の民であるしるし、神が唯一の神であることを明らかにする所として神殿を必要と思い、再建しようとしたのです。しかし彼らは自分達自身を見、意気消沈し、尻込みをしてしまったのです。しかし、主は彼らに「かつての栄光でこの宮を満たし、この場所にわたしは平和を与える」と言いました。その主は、コロナ感染が収まらない中で、或いは、世の荒波に揉まれて、迷ったり悩んだりしている私達にも「小さな群れよおそれるな。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与える」とのみ言葉が与えています。預言者が伝えた主の御言葉に励まされて、ソロモンが建てた神殿の再建に力を注いだ人々のように、私達も聖書の御言葉に励まされ、キリストの体である教会の形成に力を注ぎましょう。主はイスラエルの人々に預言者ハガイを通してみ言葉を与え、御心を示したように、御霊が私達にみ言葉を示し、御心を感じ取る者としているからです。

 さて、バビロンに侵略され、破壊されたソロモン王が建てたエルサレム神殿の再建はイスラエルの人々にとって悲願でした。しかしキュロス王に許され帰還した人々に十分な財力があった訳でなく、神殿を建てたくても困難を極めました。建物本体の基本構造の再建にはペルシアが国費で援助したのですが、内装は自分達で負担せねばならず、規模も小さく、確かに見劣りのするものでした。しかし、大変な苦労の末に人々はこれを建設したのでした。

 何故このような偉業を行い得たのでしょうか。それは聖書にあるように、ハガイを通して主の言葉が何度もイスラエルの人々に与えられたからです。確かに、主はこの神殿を必要としました。神殿が再建されたことによって、世界の各地から多くの人々が群れをなして巡礼に来ました。パレスチナの人々、ディアスポラの人々にとってこの神殿が宗教的中心になったのです。それ迄多くの地方聖所に集い、バラバラだったイスラエルの人々が、同じ神の民の自覚を持ち、信仰的に一体となっていく為に大きな役割を果たしました。

 主は今日の個所で、この宮を栄光で満たし、銀も金も私のもの、この宮のこれからの栄光は先のものに勝ると言い、この場所に私は平和を与えると言いました。しかしそれはこのゼルバベルの神殿でも、ヘロデ大王が建てた神殿でもありませんでした。主イエスが十字架で大声で叫んで息を引き取った時です。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マタイ27:51)。この時この預言が成就し、神の栄光がこの世に満ちる新しい時が始まったのです。

 このゼルバベルの神殿は政治闘争に巻き込まれ、戦禍に傷付き、前一世紀までに見栄えのしない聖所になっていました。それで、ヘロデ大王が着工し、死後も工事が続き、白く輝く大理石の豪華壮麗の神殿が約70年の年月をかけて完成したのですが、これも後70年にローマにより神殿は破壊され、嘆きの壁が残るだけになっています。しかし真の神殿は地上のどこかの人手によって作られた物ではありません。パウロが「あなたがたは自分が神の宮であり、神の御霊が自分の内に住んでいるのを知らないのか(Ⅰコリ3:16)」と教えているように、主イエスを信じ、救われた人は、誰でも皆、神の宮、神殿なのです。しかし主は、人が集まって共に主の民であることを確認し合い、助け合い、励まし合い、共に生きる者になることを望んでいます。使徒の働きを見ると良く分かりますが、信者となった人達は、心を一つにして共に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心を持って食事を共にし、神を讃美し、民全体から好意を持たれていました。そしてパウロ達の福音宣教により、各地に教会が誕生していきました。この世に神の宮が、キリストの体である教会が誕生していきました。そして、この向島にも向島キリスト教会が誕生し、様々な人の集まり、神の栄光に満ちた教会として、地域の人達の為の地の塩、世の光として、主に用いられ続けています。そして、私達もこの教会に招き入れられ、一つの群れとなって、共に主を礼拝し、平和を与えられていのです。

 神は、ユダヤ人には、神の偉大さを感じさせ、神の民である幸いを味わえる神殿を必要とし、神が与えたのは確かです。しかし、今や神は、全ての人に福音が届けられ、一人でも多くの人々が恵みと平安を受けられる場として世に教会を誕生させています。世の人々はこの事を知りません。教会がそのような所と知る私達が、世の人々にここに教会がある意味を伝えましょう。