メッセージ(大谷孝志師)
心を鎮め、御業を想う
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年9月4日
マルコ8:11-21「心を鎮め、御業を想う」 牧師 大谷 孝志

 主イエスに会ってみたい。主が地上を歩かれた時に自分も生きていたらどんなに雨良かっただろうかと考えたことはないか。聖書を読んでも、説教を聴いても今一つピンとこない時は尚更ではないか。自分の目や耳で主を見、主の言葉を聞けたら人生は大きく変わるのでは思うから。信仰の確信が欲しいと思うのが人の常。

 今日の個所でパリサイ人達が主と議論し、主に天からのしるしを求めた。主の言動を見聞きし、本当に主が神から遣わされた特別な方だというしるし、自分達が納得できる証拠を求めた。しかし主は「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とだけ言って、彼らから離れた。主も本当に必要な事であれば、しるしを与えた筈。彼らの求めが自分達の考えの正しさを確認したいだけなのを見抜いたからで、恐らく、彼らはどんなしるしを見せられても納得しなったと私は思う。

 私達も主が姿を見せたら、ご自分が主である証拠を見せてくれたら、多くの人が主イエスを信じて救われるのにと思い、主の臨在の証拠を求めたことはないか。しかしそれはこのパリサイ人達の求めと余り変わらない。主が「今の時代には」と言ったのは世の終わりの時が来て、主イエスが神であることが誰の目にもはっきりと分かる時が来るから。その日が来れば、救われる人と滅ぼされる人がはっきり分けられてしまうが、今はその時でないから、しるしは与えられないと言う。

 パリサイ人は主イエスを見ていて、主イエスが本物であれば、自分達は大変なことになると心配にしたから、主に天からのしるしを示せと求めた。この後、主は弟子達にパリサイ人のパン種とヘロデのパン種にくれぐれも気を付けよといった。パリサイ人のパン種は宗教的影響、ヘロデのパン種は政治的影響を指す。

 私達も様々な宗教的、政治的影響を受ける中、将来に不安を感じ、時には恐れを抱くこともある。今日の個所で弟子達は、自分達がパンを持参することを忘れた責任は誰にあるかを論じ合った。彼らは二度の大群衆への給食の奇跡をした主が共にいるのに、パンがないことに不安になったから。聖書は私達に主が行った恵みを数えて見よと教える。私達が、ご自身が全ての主で、出来ない事は何もない方が共にいることを忘れてはいけないから。確かに幾ら祈り求めても、願いが叶えられないことは数多くある。弟子達もそうだったのだろう。だから主に求めずに、自分達の誰に責任があるかと論じあった。主は彼らに「まだ分からないのですか。悟らないのですか。心を頑なにしているのですか。目があっても見えないのですか。耳があっても聞かないのですか。覚えていないのですか」と言う。他人の事、目先の事に心を奪われてはならない。御業を行った私が共にいるのを忘れるなと主は言う。

 確かに五千人、四千人の空腹を数個のパンで満たした主が、今その力を私達に、世の人々に示してくれたら、もっと多くの人が教会に来て救われると確かに思う。しかし、聖書は弟子達の無理解を何度も繰り返し記す。それは私達の無理解を悟らせるためと気付こう。聖書は心を鎮め、御業を想えと語り掛け続けている。世の、家族の、教会の人々の現実に心を奪われると、今も働き続けている主の御業を見過ごしてしまい、見過ごしている自分に気付けない。主は自分や家族、友人に関わり続けている。その時最善を行っていると信じよう。それが自分の思いとどんなに懸け離れていたとしても、主は生きて共にいて、一人一人に関わり、御業を行っていると信じよう。その前に先ず自分が心から主を受け入れよう。心を鎮め、一人一人に行っている主の御業を想い、その主に従って生きる者となろう。