メッセージ(大谷孝志師)

驚くべき真実がある
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2022年9月11日
聖書 ヨハネ5:19-21「驚くべき真実がある」

 主イエスはベテスダの池の側で、38年間も病気に悩み苦しみ、良くなりたいと思っていた人の病を癒し、安息日にも拘わらず、床を取り上げて歩きなさいと命じました。ユダヤ人達とありますが、彼らは普通のユダヤ人でなく、パリサイ人や律法学者達といったユダヤ教の律法を解釈する権限を持っていた人達です。彼らは人々に律法を正しく守らなければ神の民と言えないと教えていました。ですから、主イエスが安息日にしてはいけないと言い伝えられてきたことを行い、更に、神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者と言ったことは明確な律法違反で、それは人々の為にならないし、何より、神の裁きを受けなければならないことをしたのです。そのような事をしているイエスは、神の為に殺さなければと思うようになってしまったのです。

 しかし、彼らがイエスが神を冒涜したとして殺そうと思っても、それは真実なのです。ですから、主はその真実を理解できない人々に、自分のした事、言った事は正しいことなので、その理由をこの5章で説明しています。

 主イエスが神を冒涜したと思ったとしても、彼らは神を見たこともないし、声を聞いたことも無い筈です。そればかりか、御使いに会ったことも話したこともない筈です。彼らは、神がどんな方かは分からないのだけれど、昔から神はこういう方と言い伝えられてきた神を信じ、その神に神殿で献金や犠牲の動物等を献げて礼拝し、神の民の一人と確認しているだけだったのです。

 私達は、今主を礼拝し、献金し、祈りをし、神の言葉に耳を傾けています。でもそうしているから、自分達は主イエスを信じて救われ、永遠の命を与えられた神の子と安心しているだけのことはないでしょうか、目をつぶり、胸に手を当てて自省してみましょう。主は人々の心の内を知り、彼らの行為が形だけに終わっていると知るから、自分と父である神は一つだから、ご自分のしている事、話している事は神がしていると知りなさいと教えてたのです。

 私達は神は一人と信じています。一人の神がいるだけです。しかし、神は一人でも、人は無数です。一人一人が神の助け導き、働き掛けを必要としています。私達の教会に連なる一人一人、信徒や求道者がいつどこで祈り求めても、主は応えてくれています。これが、私達が今体験している事実です。主はここで、父が子を愛し、ご自分がすることを全て子に示すので、自分は父がすることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできない、つまり、自分がしている事は父である神がしていることなのだと言います。ここに聖霊は出てきませんが、この時は、主イエスが誰の目にも見える姿でいて、人に分かる言葉で話しました。ですから、御霊の働きは必要なかったのです。しかし、今は主イエスを目で見ることも、耳で声を聞くことも人にはできません。ですから御霊の働きが必要なのです。私達が天の父、主イエスとの交わりの時を持とうと願い求めれば、御霊が働き、み言葉を示し、御心を私達に悟らせます。父なる神と御子イエスと聖霊は一人の神だからです。

 イエスは、水を葡萄酒に変え、病人を癒し、悪霊を追放してきました。神がイエスを通してそれらの事をしたからです。しかし、父がこれよりも大きな業を御子を通して行うので、あなたがたは驚くことになると言います。

 そしてその通りに、神は11章で死んで四日目のラザロを主イエスの願い通りに生き返らせました。神はそのように、主が命を与えたいと思う者にいのちを、つまり永遠の命を与える者であることを明らかにします。そして今、私達は主の十字架の死と復活により罪赦され、救われて、天にいる父なる神、御子主イエス・キリスト、聖霊なる神である一人の神を信じ、いつも、どこにいても、主の愛と守りと導きを頂いて生きられるのです。本当に感謝です。

 次に主は、父は誰をも裁かず、全ての裁きを子である自分に委ねられたと言います。父と子は一つなので、子が裁くことも父が裁いたことになるからです。ここで重要なのは、旧約の時と新約の時、つまり主イエスの十字架の死と復活の前後では、神と罪人である人との関係が全く違っていることです。

 今は、神と人の間に子なる神、主イエスキリストがいます。旧約の時代は、神と人は直接関わりを持てませんでした。アブラハムは自分に向かって立つ人を見ると、ひれ伏して「主よ」と呼び掛け、その内の一人が「主」つまり神として語り掛けました。神でありながら、神が人として彼と語り合いました。ヤコブの場合も、神と格闘しますが、神は人として彼と格闘しました。しかし、ヨセフ以後は、共にいて語り掛けても、人の姿をして人に関わることはありません。しかし、神が人となって世に来ました。それが主イエスです。主イエスは神でありながら人として世に生きたのです。神の御子であり、父なる神と一体なので、イエスにより神が直接働いていたのです。旧約の時代は神が御心を行い、御心を示す為に、エレミヤやハガイのように、人を用いて語らせ、行わせました。今、新約の時代は、人としての主イエス、復活した主イエスが決めて、信徒を通して、信徒を用いて全ての事を行っています。

 福音書を読ねば分かります。主が父に願い求めると、父は拒否せず、主に行わせています。神が世に突入して、神が直接統治する新しい時が始まっているのです。しかし、世の終わりの日が来るまでは、世には悪の力が人々を強く支配し続けています。それがこの世の現実です。ですから人は、今日の聖書の箇所の人々が主の言葉を聞いて、父なる神が主を遣わしたと信じるかどうかの決断を迫られたように、聖書を読み、祈り、説教や証しを聞いて、主イエスと父なる神の臨在を、聖霊に助けられて信じる以外にないのです。そして、聖書が証ししている御子主イエスを信じる者は永遠の命を得ます。

 主は次に、死人が神の子の声を聞く時が、今来ていると言います。この死人は全ての人のことです。全ての人は死という滅びに向かって生きているからです。ですから主が世に来て、救いの道、永遠に生きる道を十字架の死と復活によって開いたのです。 主の言葉、福音を聴いて信じる者は救われ、永遠に神と共に生きる者となります。神が主イエスに、人について決定権を与えたからです。25節の死人は全ての罪人です。そして主の権威は墓の中にいる者も含め全ての人の上にあります。

 29節のその時は、世の終わりの時です。その時、善を行った者はよみがえって命を受け、悪を行った者もよみがえって裁きを受けると主は言います。だからこそ、人はこの世で教会が宣べ伝える福音を聞き、主イエスを信じて救われ、神の子の資格を与えられ、永遠の命を得た者となれば良いのです。神が喜ぶ善を行い、正しい人として生きましょう。主はその為に世に来て、今も一人一人と共にいて下さいます。