メッセージ(大谷孝志師)
躓く者のために祈る主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年9月11日
ルカ22:24-34「躓く者のために祈る主」 牧師 大谷 孝志

 主イエスの十字架の死を目前に控えた最後の晩餐の後、主の苦しみとは無関係に、弟子達は誰が一番偉いかと言い争っていた。切っ掛けは、主が弟子達の中に自分を裏切る者がいると言ったので、誰がそんな事をしようとしているのかと容疑者捜しを始めたから。それが自分の内で誰が一番偉いかという議論にすり替わっていった。しかし、主イエスはさすが。私の身になってみよと言わず、優しく注意し、彼らの善い所は認め、栄光に満ちた将来を約束している。しかし、世に残される弟子達はこの後、様々な誘惑と戦わねばならない。主は「シモン、シモン、見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました」と彼に言う。これはヨブの物語を想起させる。神がそんな事をサタンに許すのはおかしいと思うかもしれない。しかし神はエデンの園で、アダムとエバに禁断の木の実を食べる自由を与えたように、人に自由を与えている。

 だから、神を信じる信じない、主に従う従わないは自由。しかし人は何にせよ、行使した自由の責任を負う。人は自由。だが、その自由をどう用いるかが大切。祈る、聖書を読む、礼拝集会に出席する。その全てはその人の自由。ある教会で、バプテスマの有効性が話題になったことがあった。バプテスマを受けた後、何かに躓いて、教会から離れた人は救われるかどうかが問題になった。バプテスマを受ければ救われる。それは真実。しかし、その時信じた人は、その後は何をしても良いのではない。自由に何でもして良いのではない。確かにキリスト者は躓く。その場合、多くの場合人に躓く。弟子達は主イエスの十字架の死に躓いた。彼らが主イエスにそれ迄抱いていた憧れが、無残にも打ち砕かれた。捕らえられ、刑場に引き出され、十字架を負って歩むの主の姿に、神の力に満ちた姿は微塵もなかった。主イエスに人間的魅力を感じていた彼らは失望し、離れて行った。

 昔、教会研修会で「牧師の説教が良ければ、礼拝出席者が増える」という意見が出た。しかし、牧師の説教の人間的魅力に惹きつけられるだけで、本質的なみ言葉を聞くという姿勢がなければ一時的に盛んになっても、後で手酷いしっぺ返しを食らうことになる。一人一人がしっかりと主イエスに結び付くことが大切。

 弟子達は主に躓いたのは事実です。しかしそれは彼らが真に主の弟子となる為に必要な躓きだった。その後、彼らは再び立ち上がった。主が躓くペテロの為に祈り、十字架の上でご自分を十字架に付けた人々の為に祈ったから。

 人は自由。しかし自由は両刃の剣。サタンが弟子達を麦のようにふるいにかけることを願って、神が聞き届けたように、人は自分が持つ自由の故に、サタンの誘惑に遭い、躓くことがある。主にしっかりと目を向けていれば良いが、湖上でのペテロのように、波風に根を奪われ、主から目を離し、湖に沈みかけたように、主から目を離すと世の荒波に溺れることが。目を離すかどうかは人の自由だから。

 人間関係、病気や仕事で躓くこともある。しかし躓いてももう駄目と思う必要は無い。主はその人に、自分や相手の弱さを通して、何かを教えようとしているのだから。人は人を見て、全てを判断してしまう。目に見えない主ではなく、見える人を見て判断する弱さを人は持つから。しかし、その時にも主は私の為に祈っていると気付くと、自分の考え方、生き方が変わる。主がペテロに言ったように、渡した賃躓きは、立ち直った時に他の人を力づける為の躓き、出口の見えない苦しみを恐れる必要は無い必ず立ち直れる。主の愛と約束を信じていよう。