メッセージ(大谷孝志師)
主イエスと私達
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年9月18日
コロサイ1:15-20「主イエスと私達」 牧師 大谷 孝志

 コロサイ教会の人々は、勿論キリスト者で、主イエスを信じ、救われた人々です。しかし、誕生して間もないこのキリストの体の教会人々が、頭であるキリストに相応しい群れとして成長する為には、正しい信仰理解が必要と知り、パウロはこの手紙を書いています。この事は同じような当時の諸教会にも必要な事と認められ、この手紙が聖書に収められています。

 パウロは彼らの為の祈りの言葉の後に、主イエスについて教えていきます。13節で「御父は、私たちを暗闇の支配から救い出して、愛する御子の支配の中に移してくださいました」と言います。神は主イエスの父であると共に、彼らを含め全ての人の父なる神なのです。パウロは、なぜ彼らが今教会にいるのか、その理由を教えます。主イエスは神の御子です。しかし、主は人として世に来ました。ですからどこから見ても普通の人です。そして、見えない神のかたちで、全ての造られたものより先に生まれた方です。人間なので、弟子達も、主に様々なものを求めて来た人々も、人に接するように、イエスと接しています。では、十字架に掛かって死んだ後はどうだったのでしょうか。主が霊の体で復活したことは、ヨハネの福音書20章に戸に鍵が掛かった家に入ってきたことからも明らかです。弟子達も主と直ぐに分かっています。但し、エマオ途上で主にあった弟子達は、一緒に歩いている人が主イエスと分かりませんでした。でも、主がパンを裂いた時、彼らの目が開かれてイエスだと分かりました。その後、主が弟子達に現れた時、彼らは幽霊だと思って脅えて震え上がりました。主は、生前と同じ姿をした霊の体で復活して、弟子達に現れたからです。聖書には彼ら以外の人に現れことは書いてありません。コリント15:6には「キリストは500人以上の人に同時に現れ、…大多数は今なお生き残っている」とありますが、その人々は主の弟子達と考えられます。ですからコロサイの教会の人も、彼らの目撃証言を伝え聞いて、霊の体で復活した人としての主の姿を思い浮かべるなら、主が神のかたちなので、神がどんな方か想像できるとパウロは教えます。しかし私達は、主の姿は福音書の記事から想像する以外にありません。主の姿を見たいと願っても叶えられません。しかし、パウロもまた復活した主の目撃者です。ですから彼は、この教会の人々に、主イエスがどんな方かを知らせることができたのです。主が見えないことで不安に陥ることなく、見ないでも信じる者となり、主と共に生きる喜びを持てるように、言葉を尽くして彼らに語り掛けています。

 15節の「生まれた」は「造られた」のでなく、17節の「万物に先だって存在し」ているのと同じ意味です。その万物は、御子によって造られ、御子のために造られたと教えます。「見えるものも見えないものも、王座でも主権でも、支配や権威」の全ては「御言によって造られ、御子のために造られ」ています。ですから「万物は御子にあって成り立つ。存在している」のです。

 万物には当然、教会も信徒も入りますが、彼は特に教会(信徒の群れ)を上げ「御子はそのからである教会のかしら」と教えます。勿論教会は建物のことではなく人の群れです。体ということは、教会は信徒が各部分となって作る集合体です。しかし教会は烏合の衆ではありません。各部分同士が信仰により密接に繋がり合い、主の家族の関係の中でキリストの体を構成している「信仰共同体」です。主が私達の頭として、互いに補い合い、分担し合って、世に生きる者となるよう、血管と神経を張り巡らせ、生かしているのです。

教会に連なっている私達は「信仰共同体」の一員として、教会の交わりの中、世の人々の中で、信徒として生きています。しかし、かつての自分をどう捉えるかが大事です、今の自分に大きな違いが出て来るからです。パウロは「かつては神から離れ、敵意を抱き、悪い行いの中に」あったと言いますが、私達に、神から離れていた意識はなかった筈です。当時の福音を知らない私達にその意識はなく、神に敵意も抱いていませんでした。しかし、漠然として不安や恐れ、或いは妬みや憎しみを他の人に抱いた経験は誰にもあるのではないでしょうか。私自身、自分なりに精一杯生きているつもりでも、時に人を傷つけ、悲しませることもありました。自分はそんなに悪い人間とは思わなくとも、後ろめたい気持ちが今も残るのは否めない事実です。

 その原因は、私が神から離れていたことにあったのです。ですから、その私にとって神に聖なる者とされるかどうかは思い浮かびもしないことでした。しかし今、神と共に生きています。神はそのような私に恵みを豊かに注ぎ、御子イエスの十字架の死の贖いにより、聖なる者、傷のない者、責められるところのない者とし、神と共に生きる者として神が受け入れているからです。

 しかし、神の恵みにより神の国に生きる者とされている者にも、神は、神に相応しい者として生きることを人に求めています。私達が救われ、信仰と希望と愛を戴き、神の恵みと平安の内に喜びを持って、前向きに生きているように、暗闇の中、悪の力に支配されている人々を御子である主イエスの支配の中に移す為なのです。その為には、先に救われた私達が、世の悪の誘惑に引きずられず、流されずに、主イエスを信じる信仰にしっかりと踏みとどまりましょう。世の様々な現実に負けずに、どんな苦難の中にあっても、神の恵みと平安を戴き、生きている自分を感謝し、神が私達の為に既に計画を立て、その道を歩んでいると信じましょう。主に希望を置き、世の人々が求めるような希望に移って、主のものとされている自分を見失わないように、自分達の信仰に主イエス・キリストという土台をしっかりと据え、そこに堅く立ちましょう。パウロがこう教えるのは、この世の現実に負け、聞いている福音の望みから私達が外れてしまったら、世の人々に福音が宣べ伝えられなくなるからです。Uペテロ3:9に「主は、ある人達が遅れいていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」とありますが、主が忍耐しているのは、主イエスを信じていない人達ではなく、世の終わりが早く来るようにと願っている主を信じている人々なのです。主は一人でも多くの人が救われることを望み、救われた者を主の証人として世に遣わしています。自分達が聞いて信じた福音は、ただ自分達の為だけではありません。神が私達だけでなく、世界中の自分が造った人々を愛し、神の民となることを望んでいるからです。パウロは、その為に自分が仕える者とされ、あなたがたに福音を伝えたと言います。福音は神の恵みであり、人を暗闇の中に閉じ込めている悪の力から救い出し、主の恵みと平安の世界に移し、神に受け入れられる正しい者として生きる為に必要なものとして、世の全ての人に与えられるものなのです。私達は偶然この世に存在しているのではありません。御子によって造られたのです。御子である主イエスは、全ての人を救う御業を今も行っています。そのし主の為に、主の働き人となり、主に仕え、共に生きるという目的が私達にはあります。その主をしっかり見つめて世に生きる者となりましょう。