メッセージ(大谷孝志師)
終末を待ち望む信仰
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年9月25日
Uペテロ3:8-13「終末を待ち望む信仰」 牧師 大谷 孝志

 聖書は、世の終わりが必ず来ると教える。その日を待ち望みつつ、その日に備えて生きよと勧める。あらゆる生物に誕生と死がある。始めがあり終わりがある。キリスト教では、今の世を三つの時に分ける。主イエスが神の言葉として、神と共にいた時、人となって世に来て、人として世に生きた時、十字架に掛かって死に、霊の体に復活して、天に昇り、神の右にいて、全ての人を救おうとしている時に。だから今は、復活、昇天した主イエスが再臨するまでの時。この時は教会の活動を通して世の人々が救われる為の時。終わりの時に主が再臨し、今の世が消滅し、新しい神の国が到来する。

 黙示録22:20に「わたしはすぐに来る」「アーメン。主イエスよすぐに来てください」とあり、この手紙が書かれた当時の人々は直ぐに来ると言った主の言葉とその事を証しする使徒達の言葉を信じ、主の再臨を待ち望んでいた。しかし、主はなかなか再臨せず、当時の教会は信仰的に大きな危機に立たされた。再臨がないなら、主の言葉も使徒達の言葉も信用できないと、他の信徒を嘲弄し、「彼(主イエス・キリスト)の来臨の約束はどこにあるのか。父達が眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか」と言い、自分の欲望のままに生きる人達が現れ、その放縦に影響を受ける者が出て来た。彼はこの危機的状況を放置できず、この手紙で、読者達に自分達の記憶を呼び覚まさせ、純真な心を奮い立たせようとしている。彼は自分の思いを押し付けるのでは無い。自分が拠って立つ基準に読者にも立って欲しいと願う。それは聖なる預言者達によって前もって語られたみ言葉と使徒達により伝えられた、主であり,救い主である方、主イエス・キリストの命令。これを思い出すことで可能になるから。

 私達は世の終わりの時についてどう考えているか。世の終わりが必ず来ると信じても、この世の文化文明は変化しても、本質的には変化が無く、結局は、この世は何時迄も続くのではないかと考えてしまうのが本音ではないか。しかし、それではペテロが危惧するような現実逃避、放縦な生活に落ちて行き兼ねない。

 ペテロはノアの時代の大洪水を思い起こさせる。主なる神は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることが皆、いつも悪に傾くのご覧になり、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛め、主が創造した全ての生き物を地上から消し去ることを決めた。しかし、主は神と共に歩むノアに命じて、全ての生物を一雌と雄一組ずつを、彼に命じて作らせた箱船に連れて入り、生き残るようにさせた。主はご自分が創造した生物を地上から抹消せず、創造の御業が残り、地上に主の栄光が残るようにした。主は人に悔い改めの機会を与えた。その後、アブラハムを選び、彼と彼の子孫を神の民として選んだ。しかし旧約聖書を読めば、人々が神に逆らい、神が手を差し伸べてもそれを振り払い、自分の思いのままに生きる彼らの姿が描き続けられている。だから神は,御子を世に遣わし、神がご自身の痛みにより、全ての人の罪を赦すことにした。今、愛の御手をもってご自分に引き寄せようとする神と神から引き離そうとする悪が人を奪い合っている。神が人に自由を与えているので、神は人が悔い改めて自分の意思で神に立ち返るのを待ち続ける。

 しかし何時迄もではない。神は既に世の終わりの時を定めている。その時が必ず来る。世の初めがあったから、終わりが必ず来る。私達は聖霊なる神により、その事を知らされている。心を鎮め、自分自身とこの世を見つめ、この世の人々に自分が何をすべきかを考えよう。自分は何の為に今この世に生きているのかと。