メッセージ(大谷孝志師)
パウロの誇りとほこり
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年10月2日
ピリピ3:1-11「パウロの誇りとほこり」

 人間は不思議な生き物と思ったことはないでしょうか。例えば、弱いと思っていると強いし、強いと思う人が以外な弱さを見せることがあるからです。

 私は子どものころ「小公子」「小公女」という小説が好きでした。小公女からは、どんなに環境が変わっても、それに左右されずに自分らしさを保ち続ける力が、小公子からは、相手がどんなに強大でも、それに左右されずに相手を変える力が人にはあると学びました。今思うと、その強さの源である彼らが持つ人間としての誇りに感動していたように思います。どんな状況でも人間としての誇りを持って生きられるのは素晴らしいことです。反面、誇りを失った人に会い,人はこんなに変わってしまうのかと驚くこともありました。

 新約聖書には、パウロが書いた手紙の多くが聖書と認められて収められています。彼は誇り高い人間でした。彼は若い時から将来を嘱望され、当時のユダヤ社会の中で有数の指導者であったガマリエルの指導、薫陶を受け、指導者としての道を歩んでいました。今日の5,6節を見ると、彼がユダヤ人やユダヤ教の神を敬う人達に誇ること出来る事柄が挙げられています。恐らく、キリスト教に興味の無い人がこれを読んでも、だからどうなんだ、くらいにしか感じないでしょうが、ユダヤ教徒や神を敬う人達には、彼が完璧で非の打ち所のない人間に見えた筈なのです。それ程素晴らしいことだからです。

 しかし、この手紙を書いている彼は、5,6節の頃とは大きく変わっています。彼は、各地の教会の人々を迫害し、更にダマスコの教会の人々を迫害する為に行く途中で、復活の主イエスに「サウル(パウロのユダヤ名)、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」と呼び掛けられました。彼は、イエスは神を冒涜し、その罪により十字架に掛り死んだと思っていました。しかし、そのイエスが復活し、確かに生きていると知ったのです。彼はバプテスマを受けました。主を信じる者となった彼は、自分の人生に有利と思っていた5,6節のことも含めて、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさの故に、全てを損と思うようになったのです。彼は、それ迄他の人と比べて自分が誇れると思っていたもの全てが、埃(ほこり)に過ぎないものだったと気付いたのです。

 パウロは、復活のキリストに会い、主を信じる者になることにより、人生、生き方が大きく変わりました。彼はエリートコースを一直線に進んでいたような人でした。その彼が、今まで自分がしてきたことが、全く無駄だった、いや、間違っていたと気付かされたのです。その時は正しいと信じてした事とは言え、直接自分が手を下さなくても、人殺しに関与していたからです。

 とは言え、彼は全く落ち込んでいません。むしろ溌剌として、使徒言行録を読むと良く分かりますが、ユダヤ人の諸会堂で、イエスが主であり、キリスト、救い主とユダヤ人やギリシア人に福音を伝えました。使徒9:21-22に、ダマスコの人々は皆、非常に驚いて「あれは、エルサレムで、この名を呼び求める者たちを滅ぼしていた男ではないか。また、ここへやって来たのも、彼らを縛り上げ、祭司長たちの所に連行するためではなかったか」と言いましたが、「サウロはますます力を得て、イエスがキリストであることを論証し、ダマスココに住んでいるユダヤ人たちをうろたえさせた」と記されています。

 パウロは、律法教師としての地位も名誉も失いました。この世的に言えば、全てを失ったのです。しかし彼はそれらをほこりでも払うように、自分の方から振り払っています。ユダヤ教が政治的、宗教的に支配している社会です。ラビと呼ばれる律法の教師になることは最高の栄誉でした、逆に、主の証人として福音を伝えることは反社会的行為でした。それだけではありません。彼は主に命じられて、教会がまだ無い所に行って福音を伝える仕事をしていたので、自分達を派遣したシリアのアンティオキア教会からの支援だけでは足らず、天幕作りで生計を立てていました。しかも妨害しようとする人々と戦いながらの生活だったのです。教会が有れば、今の私のように、礼拝堂の中で、教会の人々に守られるようにして、安心して真の神様、イエス様の話が出来たでしょう。しかし、彼に与えられた使命は、主イエスのことを知らない人々の中に出て行って、福音を伝えることでした。Uコリント11章に詳しく記されているように、牢に入れられ、鞭打たれ、死に直面したことも度々でした。彼は、孤独な戦いを続けなければならず、この手紙を書いている時も、処刑され、殺されるかもしれない危機的状況にあったのです。にも関わらず、この手紙には「喜ぶ」「喜びなさい」という言葉が数多くあり「喜びの手紙」と呼ばれます。彼は喜び勇んで神の為の仕事をしているのです。とは言え、自分は何と惨めな人間だろうかと、自分の弱さに呻いたこともあります。その彼がいつも喜んでいられる理由はただ一つ、彼が自分の為に十字架に掛かって死に、復活して語り掛けた主イエスと出会ったからです。彼はUコリント12章で「主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さのうちにこそ十分に発揮されるのだ。』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言います。

 彼は多くのものを失いました。普通なら後悔したくなりますが、彼は無くしたものを数えていません。何故でしょう。それらとは比較にならない程豊かなものを神に戴いているからです。これが重要なのです。もし何もない状態になり、自分の内に満たされている思いがなければ、充実感、安心感がなければ、悲しくなり、過去の良かった頃を思い出し、悲しくなったでしょう。しかし彼は驚く程に前向きです。復活の主に会う前は、社会の中で誇れるものを数多く身に着けていました。しかし、彼はそれらが「塵あくた」としか思えないほど素晴らしいものを主に与えられ、その主を信じ、その主に全てを委ねて生きているからです。この世の人達は様々な強さ、人に誇れるものを求めます。しかし、それらは得たと思うと、もっと強くなりたい、もっと誇らしく生きて行きたいという思いが生まれ、実はきりがありません。しかも、世のものは一瞬にして価値がなくなったり、むしろ損失を与えるものになったりします。しかし彼が与えられ、得たものは、主が与えた水です。彼の内で泉となり、永遠の命の水が湧き出しているのです。ですから彼は、それ迄自分が誇りに思っていたものがほこりに過ぎないと分かったのです。

 人は誰も精神的、肉体的弱さを持ち、それに押し潰されそうになる時があります。私達の主はそれを撥ね除けさせてくれます。主は「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と言います。その主こそが私達の誇りです。主と共に歩み続けましょう。