メッセージ(大谷孝志師)
互いに重荷を負い合う
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年10月2日
ガラテヤ6:1-5「互いに重荷を負い合う」 牧師 大谷 孝志

 教会にいる人々や世の人々にも、強い人、弱い人がいる。能力や社会の中での地位や役割にも明確な違いがある。教会はどんな人でも受け入れ合い、自分らしく生きられると言うが、個人個人の違いから、時に問題が生じる。パウロはここで、教会にどんな問題が起きようと、それを切り抜け、主イエスに喜ばれる教会となる道があり、それは、互いの重荷を負い合うことだと、ここで教えている。

 問題が生じ易いのは、誰かが過ちに陥った時。パウロが「もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら」と例に挙げるはその為。ルカ18章の主の譬え話の中のパリサイ人が「神よ、私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します」と言ったように、過ちを犯した人を自分を量る秤のように、見てしまう時、教会の中でも問題が生じることが。最悪の場合、その人を裁き、教会の交わりから切り捨てたり、相手が教会から去ることで安心してしまう場合も。それが相手の為、教会全体の為と思いながら、結局は相手に比べて自分の方が正しいと思い、相手を見下し、自分の過ちに苦しんでいる人を見殺しにしてしまうことに。

 しかしそれでは、教会が教会でなくなってしまう。教会が教会である為には、主を信じる者が、自分が御霊によって生かされている「御霊の人」だと知ることが必要。罪人の自分が、主イエスによって救われて今生きていると自覚するなら、過ちに陥った人を切り捨てるのでなく、その人の傍らに立ち、その人を友として、自分自身を愛するように相手を愛せる。相手を自分の計りで量るのでなく、主イエスならどうするかと考え、主の計りで、自分と相手を一緒に量れるから。主が相手を愛するように愛し、その人が立ち直る為に、自分の手を差し伸べられる。過ちに陥った人の傍らに共に立つ。これが重荷を負うこと。人が人を裁けないことを忘れてはいけない。裁くことは神に任せればよいと知ろう。人を見る前に、神の御前に、十字架と復活の主の御前にいる自分を意識しよう。これが大切。

 昔、ある教会で女性会員が急に礼拝に来なくなった。牧師が訪問しても「その内行く」と返事するだけ。実はある男性役員の不用意な言葉に深く傷付いていた。それが表面化し、役員会で彼が責められ、牧師も牧会的配慮が足りなかったと責められた。役員は辞任し、転籍。牧師も数年後に辞任、新しい任地に向かった。その役員も牧師も彼女が受けた傷を思い、深く苦しんだと人に聞いた。彼は、残念な事だが、他の役員が二人の重荷を共に負えなかったと言った。教会は一人一人を大切にする所。他の役員が彼女を大切にしたのは事実。だが、役員や牧師を裁く辛さを自分達が負うべき重荷と勘違いした。御霊の導きに服するのを忘れ、人間的感情に支配されてしまうと、人は考え違いをする。その上、人は他人を吟味するのは好きで、上手。その役員や牧師の過去の言動を問題にし、ああだから、この間違いをしたのは当然と言う人も。自分を吟味すれば、自分だけには誇れても、他の人には誇れない、とパウロが言う自己吟味を忘れ去っていたから起きた事。

 このように、互いの重荷を負い合うことはとても難しい。しかし、人は一人では生きていけない。他の人の助けを必要としている。だからこそ、御霊の人として生きよう。主イエスがどうにもならない私という重荷を負って下さっている。私が相手の重荷を負わないと相手が倒れてしまうと感じる時が来るかもしれない。その人の重荷を私の重荷として喜んで負おう。そのような人の群れが教会だから。