メッセージ(大谷孝志師)
イエスは神の子 救い主
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年10月9日
ヨハネ5:30-38「イエスは神の子 救い主」

 ユダヤ人達は、イエスが安息日にしてはいけないと言い伝えられている事をし、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくしたとの言動を聞き、殺そうとするようになったと5:18にあります。彼らには主イエスが神の御子であると信じなられいからです。キリシタン禁制の時代は、キリストやマリアを信じる者は処刑されました。今、私達は殺されることはありません。でも世の人々、友人知人は、教会にいくら誘っても来ません。私達はイエスが主キリスト、救い主と信じても、そんな筈はないと頭から信じないからです。

 しかし、主イエスは全ての人を救う為に世に来たのです。その事を知らず、自分を殺そうとしている彼らが信じなければ、彼らは救われません。ですから、主はご自分が誰かをここで明らかにします。勿論、自分が自分に付いて証言しても真実と認められないのは、昔も今も同じです。ですから、主は先ず、他に証言する方がいると言います。そこで主は先ずバプテスマのヨハネの名を挙げます。1章を見ますと、彼は直接名を挙げてはいませんが、イエスがキリストと証言し、ユダヤ人の多くが彼の証言は真実と認め、ヘロデも彼の話を喜んで聞いていました。ヨハネは神が世に遣わした主イエスの証人でした。人々が彼の証言に心を動かされ、彼の姿、言葉に真実性を感じ、彼の存在を喜んだのは確かです。でも、人としてしか見られず、ヘロデは彼を殺しました。ヨハネが一人の人に過ぎなかったように、ユダヤ人は人となって世に来た主イエスがどんなに素晴らしい奇跡をし、教えを説いても、人にしか見えないのです。ですから神を冒涜したイエスを殺そうと思ったのです。

 主はユダヤ人達に、様々な教えとしるしによって、自分が父なる神に世に遣わされた御子であることを示したのです。、つまり、ヨハネが示した証拠よりも優れた証拠を示したのです、でも彼らには分かりませんでした。これは今の世の人々も同じで、うっかりすると私達も陥り易いことだと言えます。

 福音書を読むと、ユダヤ人達は主イエスの言動を見聞きし、驚くべき事、神がしているとしか思えない事だと思っているのは確かです。でも、イエスが神の御子で自分達の救い主とは決して認めようとはしません。主が行っている業が神の業と彼らが分からないのは、彼らが神の声を聞いたことも姿も見たことがないからと言います。当然と言えば当然です。でも考えてみて下さい。私達の周囲の人々は、神や仏の声を聞いたことも姿を見たことがないのに、神棚や仏壇に手を合わせています。そこに見えないが神や仏がいると信じるからです。世の人々が同じように、目に見えず、声も聞こえない主イエス・キリストを信じて救われるには何が必要かと言えば、教会の交わり、私達の生き方に惹かれるものが必要なのです。ハッとさせ、自分にはこれが必要だと感じさせるものがあれば、世の人々の心が教会に、主イエスに向けられます。私達にもそれを与えられます。私達自身がそうだったからです。

 主イエスは、自分を迫害しようとしているユダヤ人達は、神のことばを自分達の内に留めていないと言います。このことばはロゴス、1:1の「ことばは神であった」のことばです。私達は聖書を読み、御言葉が心に刻まれる時があります。その時、私達の心の内に神の言葉が留められています。神のことばである主イエスを自分の内に感じ、主が共にいる喜びを感じるからです。

 しかしユダヤ人には、神のことばが自分の内に留まることは、聖なる神が汚れた自分の内にいることになり、それでは、その人は滅ぼされるので、有り得ないことです。ですから人であるイエスに神が共にいるというのは、思い込みか偽りでしかなかってのです。しかしこの事こそが、人々を真に神の民としようとする御心なのです。彼らが、恵みと平安を戴いて生きられる神の民となるよう、永遠のいのちを求めているのは確かです。聖書の中にそれを与えられる方法、手段があると思い、聖書を調べています。しかし主は、永遠のいのちを与えるのは、彼らが殺そうと思っている私と聖書は証ししていると教えます。彼らは神について熱心で、永遠のいのちを得ることに熱心でも、自分達が見当違いな事をしていると分からないのです。

 勿論、聖書は神に受け入れられる者、喜ばれる者は永遠のいのちを得ると教えています。昔から聖書こそその手段や方法を教える書物と教えられていました。しかし、ユダヤ人は肝心なことを忘れていました。御霊と真理をもって神を礼拝することです。神殿や会堂で神を礼拝し、献げ物をしていれば、他の神々を礼拝しても良いと思い、神が形だけの礼拝を受け入れず、どんな思いからでも偶像礼拝を禁じているのを忘れていたのです。ですから主はマルコ1:15にあるように「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じる」なら、全ての人に永遠のいのちが与えられる、自分が世に来たのはその実現の為と教えたのです。

 イエスは「わたしは、わたしの父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受け入れません」と言います。昔、彼らが神が遣わした預言者ではなく、人として力を感じ取れる王を求めたように、この人は自分達の王に相応しいと思う人が来れば、その人を彼らは受け入れたかもしれません。しかし私が父の名により如何に素晴らしい不思議な奇跡を行っても、普通の人にしか見えない私を救い主とし受け入れられないと主は言います。ですから神が、神の民として生きるいのち、永遠のいのちを受ける栄誉を、彼らを含め全ての人に与える計画を行っているのに、彼らはそれを理解できないでいます。

 しかし神はその彼らを愛し、ひとり子である主を世に与え、世の人々への愛を示したのです。イエスは世に来て、主として、神の御子、救い主として彼らの前にいます。それなのに、彼らはいのちを得る為に主の許に来ようとせず、殺そうと思っているのです。神のその愛を知らないからです。この神の愛を知らないのは彼らだけではありません。私達もかつては知りませんでした。私は教会に来る前は、死を恐れ、無限の闇に落ちて行く自分に空しさしか持てませんでした。信じる前は、他人に対する不信感から孤独の毎日でした。何故、ここに教会があり、私達はここに集められているのでしょうか。神は世を愛しているのに、私達の家族友人知人が、神に愛されていると知らずに、ユダヤ人のように自分の知識や経験の世界のでに生きているからです。

 確かに人々はユダヤ人のように、恵みと平安の人生を求め、安心安全を得ようとしています。しかし教会には来ません。主イエスを信じることが自分に必要だと思っていません。人々が求める答えが聖書の中にあります。それは真理、真実です。私達はその事を知り、喜んで教会来て、礼拝し、主を信じる者としてこの世に生きています。私達の家族友人知人、世の人々にその神の愛、御心を知らせましょう。主は私達に「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」と命じています。主の御心を行う者になりましょう。