メッセージ(大谷孝志師)
主は良い羊飼い
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年10月9日
ヨハネ10:7-15「主は良い羊飼い」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは「わたしは良い牧者です」と言う。イスラエルの人にとって、羊はとても大切な動物。彼らは特に、カナン定住前は遊牧民であり、羊を飼うことが大切な仕事だった。アブラハムもイサクもヤコブも多くの羊、山羊、らくだ、ろば等の家畜を飼っていたが、聖書には他の家畜を飼う仕事は出てこず、羊を飼う仕事だけが出てくる。羊飼いと羊の関係が、神と彼らの関係を表しているから。

 ヤコブも子供達に羊の世話をさせ、ダビデも父エッサイの羊の世話した。羊の持ち主の父親はこの仕事を子供達にさせた。ここで主が言う「牧者でない雇い人」の逆の「雇い人でない牧者」は、羊の持ち主の子、神の御子の自分を暗示する。

 羊飼いの仕事は非情に厳しいもの。牧草地や水が飲める所に連れて行くので、長距離の移動は暑さの中では不可能で、夜月明かりの中での移動には、危険も伴った。草場や井戸の数は限られ、それを巡って戦いが起きることも。また、群れから羊が放れないように気を遣い、盗人や狼等の獣から守るために武器を取って戦うことも。羊飼いと羊の間には、私達が想像する以上に親密な関係があった。

 主はここで「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」と言う。勿論、羊達とは私達人間のこと。主が私達を羊に例えたのは当を得ている。羊は弱い。羊飼いの命令を守ることが自分の命を守ると本能的に感じても、水や草の誘惑に負け、危険かどうかは二の次で、今が良ければ良いと、今何とかなる方へ行く。主は、この世に肉体をもって生きる私達人間も羊のように、様々な外的に曝されているのを知る。金銭、社会的地位、男女関係等の誘惑が私達の心の隙を突いてくる。それより恐ろしいのは自分中心、自分の力に頼らせる誘惑、危機的状況になればなるほど、自分さえ良ければとの思いが蟻地獄のように私達を捉え、何が、どうすることが正しいかを考えることに鈍感にさせてしまうと知るから。

 しかし、主はその弱い羊のような私達を自分のいのちを捨ててまで護る。それだけでなく、私達にいのちを得させると言う。以前、ある方が「自分がもしイエス様を信じ、信仰を持っていなかったら、今頃どうなっていたか分からない」と言った。キリスト者になることを「新生する」と言う。主を信じると新しい命、永遠のいのちを与えられる。神に恵みと平安を与えられて生きられる。主はその為に自分を捨て、私達を生かす為に十字架に掛かって死んだ。確かに人は羊のように弱い存在。しかし、主イエスの十字架の死と復活により、イエスを私の救い主、私の主と信じるなら、主にいのちを受けられる。でもここで主が「自分のいのちを捨てる」を繰り返したのは、私達がその主の命を受け取れると教える為。

 私達は弱い。だからパウロは言う。「私は、キリストの力が私をおおうために、、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。主のいのちを受け取った私の内には、主のいのちが満たされている。だから、自分の弱さに負けることなく、強い者、何者にも負けない者としてこの世に生きられいる。とは言え、まだ自分の弱さに負けそうになり、自分の殻に閉じこもりたくなる。しかし主の弟子達が大胆に福音を宣教したのは何故か。復活の主が彼らの内に生きていたから。私達も自分の内に主の復活を体験しよう。「主が私の内に生きている」そう確信すると、新生し、豊かな人生を生きられる。主が良い羊飼いとして私達にいのちを得させる為に自分のいのちを捨てたから。主の声に聞き従い主と共に生きる者となろう。