メッセージ(大谷孝志師)
福音を伝える使命を
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年10月16日
コロサイ1:24-29「福音を伝える使命を」

 私達はパウロという人を、使徒の働きと彼の手紙を通して知り、彼が福音宣教の働きの中で、多くの苦しみを経験してきた知らされています。彼はピリピ人への手紙2:17でも「あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物になっても、私は喜びます」と言いますが、この手紙でも、コロサイ教会の人々の為に受ける苦しみを喜びとしていると言います。「産みの苦しみ」という言葉あります。彼らが新しい人として生まれる為に、彼の苦しみが必要で、それが彼の喜びになっていると私達は知らされます。

 前の大戦中、大阪の池田教会の礼拝中に投石があり、窓ガラスを割られ、特高に説教中止と叫ばれたこともあったそうです。でも牧師は、必死な思いで礼拝に来る僅かな教会の人々の為に、喜んで説教と牧会を続けたそうです。

 パウロは24節で「私パウロはそれ(福音)に仕える者」となったと言います。彼は福音に仕える者、そして25節にあるように教会に仕える者でもありました。それが神から委ねられた務めを果たすことになるからです。その彼の「私は、キリストのからだ、すなわち教会の為に、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」は難解な言葉で、多くの解釈の説があります。私はこれを、主イエス・キリストの働きに欠けたところがあるので、彼が補わなければならなかったというのではなく、人々がキリストの十字架の苦難の意味を知る為には、宣教者がこの世の悪の力と戦うことが必要で、その苦しみを主が用いることで、人々が救いに導かれると考えます。

 何故そのような務めが必要なのでしょうか。旧約の時代は神の救いの計画が隠されていたのでその務めは必要なかったのです。しかし時が満ちて、主イエスにより、神の福音が伝えられ、主の十字架の死と復活により、それが現実のものとなったからです。主は昇天前に「聖霊があなたがたに臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、更に地の果てまで、わたしの証人となります」と言いました。そして、聖霊降臨の日に、聖霊が使徒達に降ることによって、その救いの計画が明らかにされたのです。その後、彼を含めた「神の聖徒たち」と彼が呼ぶ人達にも、その救いの計画が聖霊より明らかにされ、その奥義を余すところなく伝える務めが委ねられ、自分は福音に仕えていると彼は言います。

 では彼が言う「あなたがた」はどんな人達なのでしょう。2:13に「肉の割礼がなく」とあります。これは異邦人を指す言葉です。この教会は彼らが多数を占める教会でした。しかし27節で彼が「あなたがた」と言わず「異邦人の間で」と言ったのは、この教会の人々に、どれほど栄光に富んだ奥義が自分達に知らされているのかを改めて彼らに教える為です。パウロはこの奥義を、彼らの内にいる「キリスト、栄光の望み」と言います。教会はキリストのからだで、一人一人はその部分なのですが、それと同時に教会を構成する一人一人の中にキリストがいるのです。それが「教会」と彼は教えています。

 さてパウロは、私達は奥義である「このキリストを宣べ伝え」と言います。彼はこの奥義を知らずにいる異邦人に、主が彼らを愛し、聖徒とし、栄光に満ちた人生を生きる望みを与えると知らせる使命を復活の主イエスに託されました。しかしそれは困難を極め、正に労苦しながら奮闘する日々でした。

 キリストがどんな方を指すのか知らない人々に、福音を伝えることの難しさは、誰もが経験していることだと思います。私も親戚の叔父に一対一でキリストについて話したことがありますが、全く理解して貰えませんでした。

 パウロは「このキリストを宣べ伝え、あらゆる知恵をもって、全ての人を諭し、すべての人を教えている」と言いますが、「すべての人」の中にこの教会の人々は含まれていません。パウロは、彼らがエパフロデトから福音を学び、福音が彼らの間でも実を結び、成長しているのを知っています。しかし、彼らがパウロに託された異邦人への宣教の使命を知り、彼の為に祈り、彼のように福音を伝える人になって欲しいと思い、この手紙を書いているのです。

 世の人々は福音を伝えても、無視、無関心で、反感を持つ人もいます。しかし宣べ伝えても駄目だ、と思っても、諦めてはいけないのです。福音は彼らの為なのです。人々は福音の素晴らしさを知らないだけなのです。福音を伝えることでその人と繋がりを持てれば良いのです。私も教会に行き、キリスト者と話して彼らの人間性に惹かれました。パウロの話を聞いた人々も、彼の人間性に惹かれるものを感じたと思います。しかしそれは第一歩に過ぎません。私も彼らは何か違うとは思っても、それがキリストを信じることで得たものと分からなかったからです。パウロは生粋のユダヤ人で、聖書に精通していた。だから諭し、教えられたのでしょう。私が行った教会の人々は学者でも教師でもありませんでした。しかし、パウロと同じ願いを持っていたのだと思います。それは私がキリストにあって成熟した人になることです。その事を願い、私に接してきたから、彼らと接する中で次の一歩を踏み出せ、今に至っています。私達は願いをもって接すればよいのです。成熟した者としてその人立たせるのは、パウロでも私達でもない。主がする事だからです。

 彼はここで、主イエスによる救いを知らない人々に神が与えようとしている恵みの素晴らしさを彼らに再確認させています。彼らは既に、福音を信じ、自分達の内に、栄光の望みであるキリストがいると知っています。パウロが、自分が「自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘している」と彼らに伝えるのは、彼らにも次の一歩を踏み出した欲しいと願うからです。世の人々にも同じ恵みに生きる者になって欲しいと願うからです。

 難しく考えずに、自分に出来る事をしていましょう。私達にも自分の内にいるキリストは力強く」働いてくれるからです。しかし、私達の働き掛けで相手が変わり、救われ、私達の働きが切っ掛けとなるのです。主が私達を用いて、成熟した者として相手を立たせてくれます。労苦しながら奮闘しなければならないかもしれません。キリストを宣べ伝えるとは、神の世界に生きると知らせることなので、見えない事実を信じるのは人には難しいからです。

 私も正直言って、その重さに挫折し、諦めそうになったこともあります。でもその度にみ言葉に励まされました。私の内にもキリストの力が力強く働いたのです。福音の前進を阻もうとする世を支配する悪は強いです。でも主はそれもご存じです。だからこそ「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と主は言い、更に大宣教命令の後で「見よ、私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言いました。私達は今、主が勝利した世界に生きているのです。その共にいる主に助けられて、世の人々に福音を伝える使命を果たす者になりましょう。