メッセージ(大谷孝志師)
将来を神に共に委ねる幸い
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年10月23日
ダニエル2:44-49「将来を神に共に委ねる幸い」

 今日は、イスラエルの人々をバビロンに捕囚として連行したネブカドネツァル王が見た夢とその意味を、捕囚の民として王に仕えていたダニエルが解き明かした話です。王は何度か夢を見ました。それが余りにも不思議だったので、心が騒ぎ、眠れなくなったのです。王は命令を出し、国中の呪法師、呪文師、呪術者、カルデア人の知者達を呼び集め、その夢の意味を告げるよう命じました。彼らは当然、その夢を話すよう求めます。しかし、王は知者達に、自分が見た夢の内容と意味を告げるよう命じたのです。それは彼らの答えが真実であると知る為でした。王は、それが出来なければ、彼らの手足をバラバラにし、お前達の家をゴミの山にすると言います。しかし、もし示せたら、贈り物と報酬と大きな栄誉を与えると約束します。何故そんな事を言ったのでしょう。王は夢の真実の意味を知りたいのです。彼らが告げた夢の意味が真実かどうかを知る為には、彼らに自分が見た夢の内容を言えと命じ、それが出来たら、彼らの夢の意味の説明は正しいと考えたのです。しかし彼らも人間ですから、王と同じ様に人の心を読み取ることは出来ません。ですから知者達は私達には無理ですと答えます。すると、王は烈火の如く猛り狂い、バビロンの知者を全て滅ぼせと命じたのです。正に専制君主です。

 11節をますと、彼らは王のそのような求めに答えられるのは神々以外にはいませんと言います。でも、彼等はその神々に尋ねて答えを得ようとしてはしません。何故でしょうか。彼等にとって、神は御心を尋ねれば応えてくれる人格的存在ではなかったからです。この点ではネブカドネツァル王も同じでした。イスラエルの神は物言わぬ偶像ではない、、主なる神として人と関わって来る方であり、そして、人からの関わりを求める人格を持つ神なのです。

 さて、知者達は王の命令により殺されることになります。ダニエルと友人達も知者として王に仕えていましたので、彼らを殺す為に王の親衛隊長アルヨクが来ました。聖書はそこで、ダニエルが彼に知恵と思慮深さをもって対応したと記します。彼は1章の宦官の時と同様に、自分の力ではなく、神の賜物により親衛隊長と応対し、この危機を乗り越えます。神は御前に正しく生きようとする者に必要なものを与えて守り導き、平安を与える方なのです。ですからアルヨクは彼にそんな恐ろしい命令を王が出した理由を教えます。彼は堂々と自分達を殺せと命じた王の所に行きます。そして、王に意味を示せるが、時間を与えるよう願い出て、許されます。彼にはどのような状況の中でも、神が自分達を護るとの確信があったのです。ですから、彼は堂々と王に願ったのです。そして家に帰った彼は三人の友にこの事を知らせました。

 彼であっても、王が見た夢の内容を知ることはとても重く、共に祈り求める友が必要だったからです。キリスト者にとっても、祈り合える、共に祈れる友がいることはとても大切です。主イエスがマタイ18:20で「二人か三人がわたしの名において集まっていることろには、わたしもその中にいるのです」と言うのもその為です。共に祈れば、神が答え、恵みと憐れみを与える保証が大きくなる訳ではありません。しかし、一人で祈るよりも共に祈り、課題を友と共有することによって、神に委ね、憐れみを乞う思いが強くなります。信仰生活をより力強いものとするには「共に」が共に大切と教えられます。

 神はダニエルに、夜、幻によりその夢の内容と意味を示しました。彼は私達に明かしてくれたと感謝し、神を心から褒め称えました。神が自分だけでなく、共にいる友人達にも神の秘密を明かしてくれたことを喜んでいます。神が働く時、私達も同じような経験をし、同信の友と喜びを分かち合えます。

 しかし普通は、相手の心を相手自身のように知ることも、将来起きる事も人には判りません。「神のみぞ知る」ことです。ですから、ネブカドネツァル王に見た夢の内容と意味を教えろと言われても、誰もできません。しかし王は自分に出来ない、分からないことを認められず、国中の知者に拠って知ろうとしました。人は自分に分からない事があるのを認めない弱さを持ちます。そして何かに頼って知ろうとします。しかし、全ての知者達に尋ねても、3章で建てた金の像に夢の意味を尋ねないのは何故でしょう。彼にとって神は神秘的存在でも、拝まれることだけを求め、そうしないと罰を与える存在としか信じていないからです。世の人の多くも同じではないかと私は思います。人格的関わりがないのです。しかしダニエルが信じる天の神は、彼が憐れみを乞えば、それに答え、幻の内に王が見た夢の意味を明らかにしました。彼と神は、彼に知恵と力を授け、王の心の内を彼に明かす関係にあるからです。

 ダニエルが信じた神、求めれば応える神を私達も信じています。しかし、信じていても心に葛藤が生じる時があるのは事実です。「祈りはキリスト者の息」と言います。私達は神に祈り求めることを大切にしています。しかし、主は危機に直面し、憐れみを求めても、彼にしたようには直ぐに私達に答えてはくれません。主は求めれば与えられると信じますが、私達が経験する現実とは違います。しかし、祈りを諦めないのも私達の現実なのです。主の声も聞こえず、姿も見えません。でも私達は、主が共ににいると信じています。聖霊が働いているのです。主がいるとしか思えない経験をしているからです。

 勿論、彼のように、主に直接語り掛けられないのは事実です。でもキリスト者であることを止めようと思わず、礼拝、集会に共に集っています。一人でも祈りますが、私達は主の、二人がどんな事でも心を一つにして祈るなら、主はそれを叶えると信じるので、教会の交わりを大切にしています。私達は、教会生活の中で、主は全てを知ると信じさせられ、祈り続けられるのです。

 王に夢の内容と意味を告げたのはダニエル一人ですが、36節で「私達」と言い、王も「あなたがたの神」と言います。主が彼らの祈りに応えたのです。彼は「今、私達が尋ねたことを私に明かし、王の心の内を私達に明かした」と言います。このように共に主の御心を知る友がいると知る時、私達は世では味わえない喜びを経験します。私達が信じる主は、全てを知り、導く方ですが、彼と友が主によって一つにされたように、私達にも共に信じ祈り合える仲間が与えています。私達はこの教会の交わりの中で、信仰が成長し、主を信じる喜び、主が求めに応える喜びを経験しています。私達がこのような世界に生きられるのは、2:44,45の神が起こされる永遠に滅ぼされることのない国、主イエス・キリストの十字架と復活により、主が王として支配する新しい神の国がこの預言通りに起こされ、その世界に私達が生きているからです。

 ヘブル13:7に「彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい」とあります。ダニエルの生き生きとした信仰に私達も学び、安心して全てを主に委ねて、主が与えている信仰の友と共に生きていましょう。