メッセージ(大谷孝志師)
一途な信仰を喜ぶ主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年10月23日
マルコ2:1-12「一途な信仰を喜ぶ主」 牧師 大谷 孝志

 四人の人が中風の人を主がいる家に連れて来た。そこには既に大勢の人が集まっていて中に入れなかった。何とかして中風の人を主の所に行かせた意を思った四人は屋根を剥がして、寝ている床ごとその人を吊り降ろす。当時の民家は垂木や木の枝を敷き詰めた上に土を厚く塗り固めたものなので、比較的簡単に穴を開けられた。それにしても下で静かに主の話を聞いていた人達の驚きは相当のもの。

 しかし主イエスは少しも騒がず、彼等の信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言う。彼等は主イエスにこの人の病気を癒して戴きたいと願い、主のいる家に来て、屋根を剥がして彼を吊り降ろした。それが主の喜ぶ信仰だった。昔、ある伝道集会で講師の先生が「ただ元の状態に戻りたい。主イエスなら何とかしてくれる。その気持ちだけで十分。主は必ず解決して下さる。そう信じなさい。主はあなたの為に十字架に掛かって死なれ、よみがえって、今あなたと共にいるのだから」と教えた。四人の人の信仰はと言えば、悔い改めも十字架と復活の主への信仰告白もしていない。愛の戒めも神に喜ばれる生活をしていたかどうか等、私達が信仰と呼ぶ一切を主はこの四人にも中風の人にも問うていない。

 私達は、一切を支配し、全てを愛し、慈しみ、全てを益とする神を信じる。そして神は、必死にご自分に求めてくる者に良きものを必ず与えると信じる。人は主イエスの愛と憐れみを一途に求めれば良い。これが私達が信じ、私達を生かす福音。しかし自分の信仰生活を振り返るとこの四人程の信仰を持っているかと反省させられる。幾ら信仰、教会生活の正しい在り方を知り、行っていても、主イエスだけが私に必要な存在との確信がなければ、無に等しい。彼等は主イエスしか見ていなかった。でも私達は、人の言葉や行い等の余計なものが見え過ぎる。だから、人に躓いて教会に来なくなったり、世の生活上の理由で礼拝に来ない人もいる。私の教会の教師生活の第一歩は日本基督教団川崎新生教会の伝道師。最初の新婚、妻が妊娠、妻の実家での同居だが、謝儀だけでは生活できず、バイトを探した。日曜と水曜祈祷会の話しを担当していたので、礼拝と集会に出席可能なバイトを新聞広告等で探した。3回仕事を変えたが、皆条件に合う仕事を与えられた。高校の時は皆が模試を受けたが、日曜なので一切受けず、文化祭も出席だけ取り、教会の礼拝に出てから学校に戻った。礼拝を遵守するのは決して無茶な事ではなく、主に助けて頂ければ何とかなるし、主はその信仰を喜んでくれる。

 さて、主は律法学者達が心の中で呟くのを見抜き、自分が罪を赦す権威を持つことを知らせる為に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」と彼に言う。彼らだけでなく、人は罪の赦しより病をみ言葉をもって癒やしたことに驚きを感じる。聖書は私達に罪を赦せる方は、病も癒やせる方と知らせる。魂を救う方は、心から喜んで生活できるように、現実の生活の中で目に見え、体で感じられるものを変える方と教える。他の何かではなく、主イエスに一途に真剣に求めよう。

 この病人が何故癒され、立ち上がり、寝床を担いで皆の前を出て行ったのか。四人が主イエスにこの中風の病人を癒して欲しいと一途に願ったから。私達も自分や他人のことで、主に癒して欲しいと願うものを持つ。しかしここで方向転換をしよう。癒しが必要な状態は苦しいが、主イエスに真剣に求める者となる為に与えられたもの、主に一途な思いを持つ為に与えられているもの。私達の心と体を正しい道に歩ませる為に主が与えた恵みと信じ、主に一途に求める者になろう。