メッセージ(大谷孝志師)
聖句が御言として響く人生
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年10月30日
ヨハネ15:12-17「聖句が御言として響く人生」 牧師 大谷 孝志

 昔、同盟の全国教師会が宮城蔵王で行われた時のことです。二日目の昼に自由時間があり、友達に山頂へのドライブに誘われました。霧雨が降ったり止んだりの天気だったので、気が進まず宿舎に残っていました。帰って来た友達に「一緒に来れば良かったのに。山頂はとても良い天気で、山頂の湖の「お釜」もはっきり見え、とても良かった」と言われました。下から見る限り、山の上もここも大して変わらなく思えたのです。しかし山頂には青空が広がり、彼らは感動的景色を見たのです。中腹にいた私には想像も付かないことでした。この時、私は自分にとって聖書を読み、人の説教を聴くとはどういう事かを考えさせられたのでした。私はそれ迄も日々聖書を読み、それを自分の人生経験を通して理解し、主を信じてはいました。しかしそれに縛られていないか。「互いに愛し合いなさい」との御言を読んでも、その程度や範囲を自分の状況の中で判断し、決めていないかと考えさせられたのです。

 聖書の言葉は、ただ読むだけで御言として心に響かなければ何にもならないと、改めて主に示されました。主は「私があながたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合」うことが私の戒めです。「人が自分の友の為にいのちを捨てること、これより大きな愛は誰も持っていない」と言います。主はまず、主に愛されている自分達であることを認めよと教えます。そして互いに愛し合いなさいと。主イエスがまず私達を愛し、互いにどうすべきかを教えたのです。しかし、その愛は友の為に自分の命を捨てることだと主に言われても「はい」と言えるでしょうか。私達は、主が自分を捨てて私達の罪を贖ったので、神に赦され、神の子となる恵みを戴いていると信じています。そしてキリスト者として世に生きています。その主が私達に私がしたようにせよと言うのです。これが私達に向けられた主の御言なのです。山頂に登った友達が山腹がどうであれ、太陽がいつも輝いている世界がここにあると知ったように、主は私達に、神の恵みが一人一人に注がれている世界、この御言が可能になる世界、この御言によって、人が互いに信頼し合い、支え合える世界、人が人として自由に互いに愛し合える世界があると教えているのです。

 しかし山腹にいた私が想像できなかったように、世の人々は、世の様々な雑念が渦巻き、心が霧雨が降り続く状態の中で、御言が自分達の生き方を変える、新しい世界があると言われても想像が付かないのです。私達でも、この世の現実に負け、自分達が主イエス・キリストが支配する世界に生きている意識が薄れてしまうことすらあります。では、どうしたらよいのでしょう。

 私は今でも飛行機が怖いのですが、昔、牧師になる前、失恋して、どうなっても良いから飛行機に乗ってやろうという気になったことがありました。羽田から札幌に飛びました。下界はやはり雨模様の天気でしたが、ジェット機が雲を抜け、成層圏飛行に入ると、日の光が燦々と輝き、下に真っ白な雲海が広がったのです。私は想像もしなかった世界の存在に触れ、正にハッとさせられました。神学生の私は、御言には私を変える力が有るので、聖書の言葉、聖句が神の言葉、御言として心に響くなら、神の恵みを一杯に受け、安心して相手と相手の決断を受け入れれば良いのだという気になったのです。世界観が変わり、私の聖書への思い、取り組み方が変わる時となったのです。

 そして、心に御言が響くとは、私が聖書を読む中、祈りの中で、聖書の言葉に私の心がハッとした時、それは、主イエスが私に語り掛けて来た時なのだと気付かされたのです。それ以前も、私と共にいる主イエスを身近に感じ、主の愛に気付かされることができた筈だったのです。でも私は人の言葉で、聖書や説教を読んだり、聞いたりしていたのです。その時は、確かに主の教えと存在に心を惹かれてはいました。しかし、それだけでは生き方が変わる迄に行かなかったのです。私は自分という殻から抜け出せなかったのです。

 主が山上の説教で教えたように、主の言葉を聞いても行えないことが多い私だったから、主は私に変われると教えてくれたのです。御言が心に響くなら、自然と実行したくなると教えたのです。御言は、私の罪の為に十字架に付けられて死に、復活し、私を愛し、護り導く主イエスの言葉だからです。

 主は、私達が聖書を読む中、礼拝や集会の中で、私達に働き掛けています。このままの私達は、決して十分ではなく、主は私達に変わって欲しいと願っているあらです。素直に自分を顧みましょう。主は、人の言葉を用いてそのような私達の心に、人の言葉を御言として心に響かせ、私を十字架と復活の主イエスと出会わせようとしています。主はこの地に教会建て、牧師を派遣し、多くのキリスト者を、そして世の人々を救いへと導く為に、教会に招き入れています。今も停滞状態が続いているのは確かです。その原因の一つに、私達が人の言葉や行いという部分に気を取られ易いことがあるのではと私は知らされました。聖書の言葉に心を惹かれ、自分は変わらなくてはと思っても、一番大切な主への思いから自分を反らす為に、主に喜ばれようとする自分の思いを冷やし、押し止めようとする悪の働きに負けてしまう弱さを誰もが持つからです。聖書の言葉、心に浮かぶ言葉が、主の御言として心に響いていないのです。これを行えば、神に喜ばれると分かっていても、それができないのです。静かに胸に手を当てて、自分の信仰生活を省みましょう。

 しかしそう考えた私は、その私達をこのまま放置しない為に、神が聖書を与えていると気付きました。聖書の言葉が御言として私達の心に響かせているのに、それに気付かない私達だからです。いや、分からない振りをしているだけなのかもしれません。主イエスは私達に、今日示された箇所の中で、私の戒めを守るなら、私の愛に留まっていると教えています。私達は主の戒めを守ろうとする気持ちはある筈です。いえ、守ろうとしているのです。しかし現実というか、自分の弱さに負けて、諦め掛けているのではないでしょうか。しかし主は私達のことを諦めていません。今の私達の教会を見て、そう感じています。礼拝や祈祷会を見て、そう感じさせられているからです。

 ですから主の戒めを守れないと諦めずに、語り掛けている主の言葉を御言として心に響かせましょう。心をしっかりと主にを向けましょう。そうすると、主の戒めを守れる自分に気付きます。主は私達一人一人を、掛け替えの無い者として愛し、導いているのです。「私が共にいるから安心して、相手と共に生き、励まし支え合いなさい」と掛り掛けている主に気付きましょう。
 御言として心に響く聖句に気付きましょう。そうすれば、自分は雨模様の世界にではなく、主の光りが輝き照らす世界に今生きていると分かります。十字架と復活の主は今も生きて働き、私の光が輝く世界、恵みと平安に満ちた世界に自分達が今生きていると気付きなさい、と私達に語り掛けています。