メッセージ(大谷孝志師)
私達は神が住む家
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年11月6日
Iコリント6:19-20「私達は神が住む家」

 私達は神を礼拝しています。しかし私達が信じ、礼拝している神はどんな姿で、どこにいると思っているのでしょうか。神は私達の考える世界うや思考を超越した方です。どんな姿で、どこにいるかは全く分かりません。でも、私達は神を礼拝する為にこの礼拝堂に集まり、礼拝しています。想像でそうしているのではありません。私達の思い込みでもありません。聖霊の働きにより主がここにいて、私達が礼拝するのを喜ぶと知るから礼拝しています。

 今はそのように信じるしかありませんが、旧約の時代はどうかというと、神と人の関係は見える形で行われていました。勿論、神はご自身の姿を見せません。アブラハム、イサク、ヤコブに神は現れて語り掛けましたが、姿は見せたとは書かれていません。但し、アブラハム、ヤコブには光り輝く姿ではなく、普通の人の姿で現れました。妻サラの妊娠を告げた後、アブラハムはゴモラに下す裁きについて神と交渉し、ヤコブは神と相撲を取り、神が去らせよと言うと、私を祝福してくれなければ去らせないと条件闘争をします。モーセには姿を見せず、燃える柴の中から彼に声を掛け、エジプトで奴隷であった民を導き出せと命じました。神は、脱出した民を昼は雲の柱、夜は火の柱の中にいて守りました。そしてシナイ山で火の中で山の上に降り、神は声を出してモーセに語り、十戒を授けたのです。その後、聖所と至聖所から成る幕屋を造らせ、その至聖所に十戒を納めたあかしの箱を置かせ、その蓋は宥めの蓋と呼ばれ、神はそこでモーセと会見し、民に命令すべき事を彼に示しました。民は、初め民は幕屋、その後は神殿、バビロン捕囚から解放後、あかしの箱が所在不明になっても、三大祭りの時には、神殿に来て、普段は地区の会堂で礼拝し、神殿崩壊後も、会堂礼拝を続けています。

 日本ではどうでしょうか。人々は、神社仏閣に参り、家では神棚、仏壇で神仏に加護を求めています。私達はここで礼拝していますし、ここに来る時、教会に行くと言います。ここに神がいるからですが、ここでしか神を礼拝できないのではありません。野外や自分の家でも、空き室を借りてでも礼拝ができます。それは、主イエスの十字架の死と復活により、主イエスを信じるなら、その一人一人が神の宮、神殿、神の住まいとなるのです。ですから礼拝堂という建物が教会では無く、主が一人一人に住む信徒の群れが教会なのです。勿論、一人で神を礼拝する為にここに来ることもあるでしょう。でも、その時、自分が見えない信徒の群れを感じ、その一人として来ている筈です。

 さてパウロは、Tコリント6:19で「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません」と言います。私達一人一人が神の宮であると同時に、私達という主を信じる者の群れも神の宮であり、教会です。ですから、礼拝やその前後の交わりの中で、主が共にいることを強く感じることはあるのは確かです。でもそんな時、ふと自分を見て、或いは一人になった時、自分は立派な人間でなく、御名を汚すことさえすることがある。こんな汚れた自分のどこに神がいるのかと思い、どこにも見付からないと思ってしまう時があるのではないでしょうか。しかし、それで落ち込んだり、自分が嫌になる必要はありません。自分が自分をどう思うとも、私達は神の宮なのです。

 使徒10章にある、ペテロがヤッファで見た幻を思い起しましょう。彼が夢心地になると、天が開け、大きな布のような入れ物が四隅を吊されて地上に降りて来ました。その中には清くない物、汚れた物等、彼が食べたことのない動物が入っていたのです。神が「ペテロよ、屠って食べなさい」と言うと、彼は「清くない物や汚れた物を一度も食べたことはありません。」と答えます。すると、神は「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」と言い、それが三度繰り返された後、その入れ物は天に引き上げられたのです。神は彼に「食べ物のきよさと汚れ」について教えたのではありません。彼がそれ迄、異邦人を汚れた者として接触していなかったからです。しかし、神は既に、主イエス・キリストの十字架の贖いにより、全ての人が悔い改めて、主イエスを信じるなら、その人をきよい者、聖霊の宮、神の宮しているのです。その事を彼に示したのです。パウロがTコリント6章で「あなたがたはもはや自分自身のものではない」と言ったように、私達は代価を払って神に買い取られ、神のものとなっているのです。私達が自分のからだは自分のものと思っているから、自分の罪や悪い所が自分の責任のように思い、自分は神の宮になれるような立派な者ではないと思ってしまうのです。自分がそう思っている限り、私達は神の住まいとされた喜びを味わえません。自分が神の住まいとなっている、聖霊の宮と知ることは、私達自身の為だけではなく世の人々の為でもあります。ですから、神は彼を通して、私達がもはや自分のものではなく、代価を払って買い取られた神のものだと教えるるのです。私達が、神の恵みによりこの自分が神の宮になっていると気付く時、自分に、自分と接する人々に大きな変化が起きることになるからです。

 イザヤ57:15に「私は高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人と共に住む。へりくだった人達の霊を生かし、砕かれた人達の心を生かす為である」と、神の言葉が記されています。神が私達の内にも住んでいるのです。何の為にでしょう。昔、エジプトの奴隷生活から導き出された民に、神の臨在を知る為には、神の存在を示す至聖所が必要でした。今、世の人々が主イエスが生きて働く方であり、人々を愛し、悪が支配する闇の世から救い出す為に、十字架に掛かって死に、復活して共にいると知る為には、私達が神の住まいとなって、神が、主イエス・キリストが今も生きて働いていると知らせることが必要なのです。パウロはTコリ6:20で「ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」と勧めています。私達は自分の信仰が弱く貧しいからと尻込みすることはないのです。私達は世に生きる自分の生き方によって、神の栄光を現すことが出来ます。神が助けてくれるからです。私達がそうすることが御心だからです。私達自身のことを考えてみましょう。私達は、神のこともイエスのことも知りませんでした。しかし、主が住む家となった多くの信仰の先輩達の姿を見て、主が、今も生きて働いていると知ったのです。人々が私達を見て、主イエスがどんな方かを知ることが出来る私達になりましょう。私達も主を知らせられます。Uコリント6:2に「恵みの時に、わたしはあなたに応え、救いの日に、あなたを助ける」とあり、パウロは、今は恵みの時、今は救いの日と言います。私達の内に住む御霊がその働きをする私達を助けてくれるからです。ですから、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みましょう。私達は生ける神の宮なのです。