メッセージ(大谷孝志師)
一番善いものは何か
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年11月6日
マタイ7:7-12「一番善いものは何か」 牧師 大谷 孝志

 人は様々なものを求めている。その中には善いものもあれば、悪いものもあるのが世の常。善いものを求める心は人を向上させるが、悪いものを求める心は人を堕落させる。人は悪いものと分かっていて悪いものを求めてしまうのが世の現実。

 ガラテヤ5:19-21にその項目がある。「肉のわざ」とある。肉といえば関東では豚肉だが関西では牛肉だと、大阪の教会に赴任して初めて知った。聖書で言う肉はその意味ではない。「肉は」人が生まれながらに持つ不完全性、限界性を表す。人が神から離れていても平気でいられるのは、肉の性質を持つから。肉は、身体だけでなく精神も含む。生まれながらの人は、肉の身体と精神を持つので、悪いと分かっていながら悪いものを求めてしまう。誘惑に負け易い。更に、不完全性と有限性の故、悪いと分からずに悪いものを求めてしてしまうことも。これも世の現実。

 しかし、善いものを求めれば、人は向上するかと言えば、残念ながら、良いと思って悪い事を求めている場合もある。善悪の基準は人や時により異なるから。そして互いの間で、裁き合いになり、人間関係が大きく損なわれてしまうことも。それは生まれながらの人は全て肉の性質を持つから。」

 主イエスの「求めなさい。そうすれば与えられます・…。」という命令と約束はこの肉の性質を持つ人に与えられている。では、この「あなたがた」がキリスト者を指すのか、キリスト者を含む全ての人を指すのかと言えば、私は、全ての人を指していると思っている。どちらにしても、人はこの世に生きている限り、肉の性質をもって生きている。しかし、キリスト者はイエス・キリストを信じているので、この言葉の意味を聖霊により教えられている。そこが違う点。

 何かを得ようと思えば求める。「求めるものは得、探すものは見出し、叩く者には開かれる」これはこの世においても事実。だが、思う通りにならないのも事実。そして諦めてしまう人も多い。主がここで「与えられる」と教えていることに注目しよう。自分が求めているものは世のもの、他人のものではなく、神のもの。

 主はここで世の常識を教えているのではない。神は私達を愛し、必要なものを求めるなら、神は与える。その神に求めるなら、神はあなたに与えると教える。世の人はこの事実を知らない。私達は主イエスの十字架の死と復活により、神と人との関係が主イエスを信じることにより回復すると知り、その世界に生きている。

 人は誰も様々なものを求めて生きている。しかし全ての人に求めるものが与えられたら、世界が平和になるどころか資源が枯渇、決して平和でなくなるのでは。

 人が自分の欲望を満たす為に肉の思いに従って求めている限り、人は幸せにはなれない。でも、悪いと思うものを求めず、善いと思って悪いものを求めないようにすれば良いのかと言えば、世の人には不可能。キリスト者も肉の性質を持つので、やはり不可能。だから大切なのは、神に善いものを与えてと祈ること。何が善であるかは人には分からない。でも、神は人が善いのものを求めれば、善いものを与えると主は教える。求めるものと違っても、神は今の自分にとって善いものを与えたと受け止め、感謝すれば善い。だから、私達は全てのものを感謝して受け取り、心穏やかに生きられるこの奥義を持つ。12節の命令にその奥義が隠されている。神は善いものを人を通して与えるが大前提。だから自分が人からして貰いたいと思う事を人にすれば善い。神が互いに人を恵みの器として用い、善いものを相手に与えさせる。これが神が支配し、私達が今生きる世界と主は教える。