メッセージ(大谷孝志師)
全能の父なる神を信じる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年11月13日
創世記18:9-15「全能の父なる神を信じる」 牧師 大谷 孝志

 今はコロナ禍の為、礼拝時間短縮中なので使っていませんが、私達は聖日礼拝の中で「使徒信条」を共に告白していましたた。教会員になった人に渡す日本バプテスト同盟の「信徒の手引き」には「歓迎の言葉」「主の祈り」に続いて「使徒信条」が掲載されています。この信仰告白文書が、使徒信条と呼ばれるのは、五世紀初めに、伝えられてきた信仰告白文書を、使徒達がエルサレムで作った信仰基準と信じた司祭によって、その教会のバプテスマの際の信条として使ったからと言われています。これは今では「古ローマ信条」と呼ばれています。そして、現在の物と内容的に大きな差異はありません。

 信条には、使徒信条のように「我は…信ず」で始まるものとニカヤ信条のように「我々は…信ず」で始まるものがあり、個人告白と信仰共同体としての告白の二つに分かれます。使徒信条は、元々、受浸者の信仰告白に使われたものなので、個人的告白になります。私達も「わたしは、天地の創り主、全能の父である神を信じます」と使徒信条を告白していますが、ですから私達は、その時これを、私はこう信じるとの思いをもって告白していましょう。

 今日の個所は、私達に信じるとはどういうことかを教える大切な箇所です。99歳のアブラハムは、89歳の妻サラが男の子を産むと主に言われ、笑いました。サラも同じ事を言われ笑いました。86歳で召使いに子を産ませた彼でも、年の隔たりは大きかったようです。しかし、彼は、人の目に全く不可能な事であっても、神には不可能ではないと信じたのです。これが全能の父なる神を信じることなのです。そしてこの告白が使徒信条の冒頭におかれています。それは、これが私達の信仰の原点であり、信仰生活の出発点になるからです。

 不可能と言えば、私達の周囲には数多くあります。しかし、試験で満点を取るのは不可能に思いますが、本当にそうでしょうか。授業で先生の話をしっかりと聞き、学んだことを整理して記憶し、更に予習復習を積み重ね、十分な準備と睡眠を取って臨めば可能になる筈です。また、極端な話ですが、自分が総理大臣になることも可能性が薄いだけで、不可能では無い筈です。しかし不可能な事があるのも事実です。自分が二つの場所に同時に存在する事も、両親より年上になる事も、人がどんなに努力しても不可能だからです。

 アブラハムはサラに子が生まれると主に言われ、心の中で「それは不可能だ」と呟きました。妻は既に月経が止まり、医学的に妊娠は不可能でした。しかし、彼女は主の言葉通りに妊娠し、出産しました。自分や自分達に絶対必要だと思う事の一つや二つは、必ず誰にでもあります。でも、どう考え、どう努力しても不可能と決め付けざるを得ない事があるのも確かです。そんな事に直面して、夢も希望もない状況に立たされ、諦めざるを得ない時もあるのではないでしょうか。私も昔、虚無感というか、体から気力が抜けてしまい脱力状態になり、生きることが厭になることがありました。しかし、今日の個所は、そんな時どうしたら希望を持って前進できるかを教えています。

 この世に生きている私達は、どうしてもこの世の基準や常識で判断し、可能、不可能を決めてしまいがちす。しかし今週の箇所には、アブラハム夫婦に子が与えられた事、自分達が不可能と決めざるを得ず、思わず笑ってしまうような事なのに、実はそれは不可能ではなかったと記されているのです。

 聖書は私達に、神には不可能な事はないと教えます。それが私達の信仰の出発点なのです。初めに言いましたように、私達は使徒信条で「私は、天地の造り主、全能の父である神を信じます」と告白しています。しかし、神が天地の造り主であること、全能であること、私の父であることを、いつ確認したのでしょうか。例えば、私が誰かに手を置き、神がその人を癒すのを見れば確認できるかもしれません。でも、私はそのような経験をしたことはありません。しるしと奇跡を求めて連続祈祷を何日もして、祈りが叶えられたという話を聞いたことはあります。しかしこれも私には経験がありません。

 アブラハムは確かに75歳の時に「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と主に言われ、主が告げた通りに出て行きました。どこだか判らない所に行くことには不安や恐れがあったでしょう。しかし、彼は主に直接そう言われたから従いました。99歳の時も主に直接言われましたが、彼は笑い、心の中でそれは不可能だろうと思ったと前章の17:17にあります。しかし、アブラハムは信じたのです。主が再び彼に現れて来年の今頃、サラには男の子が産まれていますと告げたからです。パウロはその事を「彼は、死者を生かし、無いものをあるものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われたとおり、多くの国民の父となった」と言います。その信仰を神は私達に求めています。

 私達は十字架に掛かって死んだ主イエスが、目に見えなくても、語り合ったことが無くても、自分と共に生きていると信じています。それは同時に、父なる神が全能と信じていることなのです。全ては神がしたことだからです。 何故、神が私の父であり、全能と信じることがそんなに大切なのでしょう。私達は主を信じていても、信仰生活の中で、理不尽、不可能な状況に時として立たされるからです。しかし、神が全能であり、神が私の父であり、その神が支配する世界に生きていると判ると、生き方、人生観、世界観が劇的に変わります。どんなに努力しても不可能と思う事でも、不可能と決め付けず、諦めない生き方が出来ます。アブラハムのように、パウロが教えるように、望み得ないとは思わずに、それを望みつつ信じられるようになるからです。彼らだけではありません。聖書には、現状に押し潰されず、それに耐える力を与えられ、その先にある光りの世界を信じて生きた多くの人々がいます。主が言うように、世にあっては苦難があります。世の人々が福音を聞き、主イエスを信じて救われる為には、主イエスに敵対すサタンからの攻撃が避けられないからです。それが、私達が今生きているこの世の現実なのです。

 しかし私達には「しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。」という主が共にいるのです。パウロはTコリント15:57、58で「神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち、堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と言います。彼は私達に自分の信仰生活を静かに省み、恵みを数えてみなさいと教えます。私達が信じる神は、私達の労苦を決して無駄に終わらせない方です。私達の父なる神で、万能の神なのです。その神を信じて、安心して世に生きる者となりましょう。