メッセージ(大谷孝志師)
宣教には苦難が伴う
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年11月20日
Iコロサイ2:1-5「宣教には苦難が伴う」

 この手紙を書いたパウロは苦闘しながら福音宣教の働きを続けています。

 1章の終わりにも、労苦しながら奮闘しているとあります。何故福音を宣べ伝えるのにそんなに労苦が伴うのでしょうか。彼は、エパフラスから福音を学んだこの教会の人々が、「愛の内に結び合わされて心に励ましを受け、更に、理解することで豊かな確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになるため」には、まだまだ必要な事があると知り、彼らにそれを教える為にこの手紙を書いています。「愛の内に」とはどういうことでしょう。人が、神の愛を知ると、自分達が神の愛に包まれていると知り、相手に対する方が変わります。互いに、神の愛の内に生きることになるので、相手からの励ましを素直に受け入れられるようになるからです。人は互いに一緒にいても、相手の心の内を人は知ることが出来ません。主は全ての人と共にいるのですが、主イエスを信じなければ、神と自分を繋ぐパイプがないので、神もイエス・キリストも想像は出来ても、本当には分からないので、生活の上で何の力にもならないのです

 しかし福音を知り、福音に生きるなら、暗闇の世界から救い出されて、御子イエス・キリストの支配する世界に生きられます。互いに相手を思いやり、自分を愛するように相手を隣人として愛せると判るようになります。暖かな思いで相手と接せられます。全ての人に用意されているこの素晴らしい人生を知って欲しいと願うから、彼は福音宣教を続けるのです。しかし彼が、労苦しながら奮闘しなければならないのは、この世にはそれを阻もうとする悪の力が強いからです。彼にとっても、その労苦が辛い時が当然あったと思います、でも彼自身、御子を世に与えた神の愛、自分の罪の為に十字架に掛かって死んだ主イエスの愛を思うと、苦闘しながらでも、福音を伝えずにはいられなかったのです。それに彼は、自分の労苦により、彼らが「豊かな確信に達」することが出来ると信じています。

 人は、主の愛を知ることにより、自分中心の肉の思いが消し去られ、相手との間にある目に見えない壁がなくなります。すると互いが神の国に共に生きていると判ります。この神の国は、妄想の世界ではありません。主を信じて生きている私達は、自分が生きるこの世界が神の国であることを、イエス・キリストが共にいるとしか考えられない事実を経験させられることによって知っているからです。パウロと私達の場合は違いますが、神の奥義であるキリスト、復活の主イエス・キリスト今も生きていると信じています。不思議なことですが、復活し、十字架に掛かって死んだイエスが霊の体に復活し、主イエス・キリストとして私達に働き掛けてきたのです。そして私達は、それ迄想像も出来なかった知恵と知識の宝の全てがキリストの内に隠されていたことを知ったのです。

 それにしてもなぜ、パウロはこれ程までに苦労してでも、この手紙で彼らに、この福音を伝えなければならないと思っているのでしょうか。それは、グノーシス主義者という異端の教師が教会に入り込み、まことしやかな議論によって人々を惑わし、空しい欺し事の哲学によって彼らをこの世の諸々の霊の囚われの身になるよう働き掛けていたからです。このままでは彼らのキリストに対する堅い信仰が揺らぎ兼ねないので、彼らが主キリスト・イエスを受け入れた時の初心に立ち返り、キリストにあって歩むよう勧める為です。

 私達もこの世でキリスト者として生きる中で、自分は何者なのか、世の人と自分との違いは何なのか、教会の交わりと世の人々との交流の違いは何かを考えさせられることを、何度か経験しているのではないでしょうか。主が私達に、自分は何の為に、何を目指して生きているのかを考えさせ、悟らせる為なのです。パウロはこの手紙を書く時、コロサイ教会から遠く離れた所にいました。でも彼は、彼らがエパフラスに教えられた福音に忠実に生き、実を豊かに結んでいると知っています。と言うのは、パウロは霊において彼らと共にいて見ているからです。それで彼らの秩序とキリストに対する堅い信仰を見て喜んでいます。「秩序」と「堅い」は共に軍隊用語です。彼がなぜ厳しい軍隊用語を使ったのかと言えば、信徒はただ礼拝し、献金し、自分が信徒であることを他の人々に示していれば良いのではないからです。信徒はイエスが王で、信徒は王である主の統治下にあり、王国を守る戦士なのです。ですから彼自身も、主の王国の戦士として、労苦しながら奮闘しています。

 彼は「あなたがたやラオデキアの人達のために、そのほか私と直接顔を合わせたことがない人たちのために、どんなに苦闘しているか、知って欲しい」と思っています。そうすることで。彼らが「愛の内に結び合わされて心に励ましを受け、さらに、理解することで豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを知るようになる」為です。彼らがまだそこに達していないと彼は聖霊に知らされているからです。それを知ることこそ彼らの為と知るから、彼は苦闘を続けるのです。苦闘ですから、続けるのは大変です。でも彼は苦闘を続けています。それはこの教会の人々の姿に希望を見出しているからです。彼らが福音に生き、世の人々に福音を伝えていく為に、自分達の教会生活を秩序正しいものにしようとしていること、王であるキリストに対する忠誠心を堅く持っていることを、聖霊の力により、見て喜んでいるからです。

 私達はどうでしょうか。教会の交わりの中で、自分が受けた恵みを他の兄姉とどれだけ分け合っているでしょうか。近くにいても心が遠く離れていて、気持ちが分からない寂しさを感じることはないでしょうか。パウロは遠く離れていても、霊において彼らと共にいるので、それを見て喜んでいます。私達も思いを一つにして共に歩めるように、御霊の助けを求めましょう。違いという壁に阻まれて、自分に出来ないと諦める必要はありません。彼らにしても、彼が願い、満足する所に達したから、彼に喜んでもらえたのではありません。ピリピ1:6にあるように、彼らの間で良い働きを始められた方が、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成してくださるのです。その途上にいる彼らのように、私達もその完成に向かって共に成長すれば良いのです。

 その為にも、私達はパウロのこの教会の人々への思いと苦闘する姿を、私達の現状への主の問い掛けとして受け止めましょう。そこに私達の教会生活の充実と成長への道があるからです。一見まともと見える道へと誘うサタンの働きを警戒しましょう。サタンは、私達が油断してぬるま湯に浸かりホッとしていると、それを見て喜びします。ですから心を戒め「惨めで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸な自分(黙示録3:17)と素直に認め、熱く燃える信仰、冷静に厳しく吟味する信仰を持ち、苦闘を恐れず、人々に福音を伝えましょう。彼が強いから出来たのではありません。主に全てを委ね、主が助けたから出来たのです。主を信じ委ねましょう。主は応えてくれる方だからです。