メッセージ(大谷孝志師)
良い知らせを告げよう
向島キリスト教会 礼拝説教 2022年11月27日
詩篇96:1-6「良い知らせを告げよう」

 今日、アドベント、待降節が始まりました。主の降誕を待ち望む日々が始まったのです。詩篇95:1に「主に向かって、喜び歌おう。私たちの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう」とあります。主イエス・キリストは、私達の救いの岩です。今から約二千年前に、私達一人一人の為にユダヤのベツレヘムで生まれ、十字架に掛かって死に、復活し、今も一人一人と共にいる方です。

 私達は主イエスを礼拝し、讃美し、祈っています。その全てが喜びの歌、救いの岩である主イエスに向かっての叫びなのです。詩篇の記者は更に「感謝をもって御前に進み、讃美をもって主に喜び叫ぼう」と言います。そのようにして礼拝する私達を主は喜ばれます。なぜでしょうか。創世記は、人は全ての被造物と違うと教えます。人だけが神に象り、神のかたちに造られたからです。それだけではありません。人だけに神が「その鼻に命の息が吹き込まれた。それで生きるものとなった」のです。何故かと言えば、神である主が、ご自分が神である為に、ご自分を礼拝する者を創造したからです。そして、自分の意思で神を礼拝する者とする為です。人はエデンの園で平和に暮らしていたのですが、悪の誘惑に乗り、禁じられていた園の中央にある木の実を食べてしまいました。神は、人が自分の意思で神を礼拝する者とする為に、人に自由に判断する知恵と行動する意思を与えていました。しかし、その自由を人は間違って使い、神の戒めを破り、神に背を向けてしまったのでした。神である主は、罪を犯した人をエデンの園から追い出したのです。

 主が人が罪を犯すままにさせたのは何故か、と考えた時、示されたのは、人が神と正しい関係を持つ者とする為ということでした。全てを整えられたエデンの園では、善悪の基準を持つ必要が人にはありませんでした。ですから、神を礼拝するかどうかの選択も必要なかったのです。しかし人は、自分の思いのままに生きると罪を犯す弱さを持っていました。神はそのままでは、人が自分の意思で、心から神を礼拝する者なれないので、一旦エデンの園から追放し、自分の意思で神を自分の神と認め、人生を神の方にしっかりと向け直し、神の許に立ち返り、神を礼拝する者にする為の追放だったのです。

 この事を主イエスは「二人の息子の譬え話」で教えています。二人の息子の内、弟は父の財産の内、自分の相続分を前もって分けて貰い、遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くし、財産を使い尽くし、悲惨な状況の陥りますが、本心に立ち帰り、悔い改めて父の許に帰ります。父は、息子が自分の意思で父の許に帰り真の息子となるのを待っていました。人は生まれながら罪人です。赤ちゃんも自分の思い通りにならなければ泣き叫び、要求を通します。程度の差や表現の仕方は変わっても、人は自分大事、人の事より己の事が関心の第一です。罪の意識はなくても、それが相手を傷付けたり、相手だけでなく自分の人生も混沌とさせ、失望や絶望に追いやってしまう場合すらあります。勿論、神は人をそのような者とする為に造ったのではありません。ですから、人が人として、正しく安心して、他人を信じて共に生き、互いに愛し合い、将来に希望をもって生きられるよう、闇が支配するこの世に、御子イエスを与え、イエス・キリストの十字架の死と復活により、主を信じ、神の意志を知るなら、「信仰と希望と愛」をもって生きられるようにしたのです。

 主は、人が自分の意思で主に立ち返り、主を礼拝する者となるのを、今もじっと待っています。クリスマスは世界中で大きな年間行事の一つとして定着しています。でも世の人々がイエスが主であり、キリスト、人生を確かなものにする救いの岩と知らなければ、教会には来ません。クリスマスはその事を知らせる最も良い機会なのです。この機会を用いて、一人でも多くの人が主の降誕を喜び祝えるように、クリスマス礼拝、イブ礼拝に誘いましょう。

 放蕩息子は、何故父の許を離れたのでしょうか。自分の意志と力で生活したいと思ったからです。人に思春期があるのは皆さんもご存じです。自我に目覚め、親から離れようとする時期です。その時、子は程度の差こそあれ親に反抗し、嫌悪感さえ抱くこともあります。私も小学 5.6年の頃、突然は母と手を繋いで歩くのが嫌で、手を振り払った記憶があります。しかし反抗期は人として成長する上で、不可欠と言われます。親の方では、どんなに子に反抗されても、子に愛情を注ぎ続けます。病気になれば寝ずの看病もし、子に必要なら自分のものを犠牲にしても用意します。でも、子の方は、私自身そうでしたが、親の心子知らずなのです。心が親から離れているからです。しかし子の場合は、私もそうでしたが、ある時親の愛情を意識します。私がこの親の子であることを受け入れ、新しい親子関係が成立します。その時、本当の意味で親と子になるのです。ある意味、世の人々も同じだと言えます。

 主の譬え話では、放蕩息子の父は私達の主なる神、放蕩息子はイスラエルの人々のことです。神は人が自分は神の民と知りながら、神の許を離れ、自分が頼りたいもの、偶像などに頼り、自分がしたいと思う事をしている人々がご自分の許に立ち帰るように働き掛け続けています。神には大事な神の子だからです。

 神は今、世の人々が神に養われている羊と自覚し、神にのみ拠り頼み、神に従い、神をのみ礼拝する者と成り、神が創造した目的通りの人になるよう求めています。聖書はそれが、被造物である人が人として生きることと教えます。前にも言いましたが、人が自分の思いだけで生きると、人を自分の領域に引き込み、自分のものとしようとする悪魔の手に落ちてしまいます。ですから神はここに教会を立て、私達を選び、言葉と権威を与え、福音に生き、福音を伝える者として用いているのです。

 思い出しましょう。イスラエルの人々に、アブラハムや族長達、モーセや預言者達を通して働き掛け、神の民として成長させ、神の支配の中に生きさせようとしたように、主は様々な主の証人、働き人を遣わして、私達に福音を届け、主イエスを信じ、主と共に生きる者としたではありませんか。イスラエルの人々が二千年以上の旧約の歴史の中で神の思い、招きに応えられなかったように、百五十年以上、福音が日本に宣教され続けているのに、人々は教会に来ようとしません。

 神は愛する御子を世に与え、御子イエスの十字架の死の贖いと復活により、救いに至る道を開き、今も開かれ続けています。主は今も、世の人が自立した神の子として、自分の意思で決断し、神と共に生きる者となることを求め続け、人々が御心を知るようにと、人を選び、働き掛け、語り掛けています。私達も主に選ばれたその一人一人です。その主の降誕を祝う日がクリスマスです。御子を世に与えた大いなる神を、一人でも多くの人々が讃美し祝えるよう、救いの良い知らせを告げ知らせましょう。詩篇の記者は「日から日へと 御救いの良い知らせを告げよ」と言います。それが神の願いだからです。