メッセージ(大谷孝志師)
私達は何故神に祈るか
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2022年11月27日
マルコ9:21-29「私達は何故神に祈るか」 牧師 大谷 孝志

 これ迄出来なかった事、し切れなかった事が頭をよぎることが。そんな時、自分の能力の限界を痛感し、その限界を超えなければと思っても、どうにもならないと知り、落ち込むことも。しかしその現状の中で人は生きていかなければならない。人生の手引きでもある聖書が、そんな時はどうしたら良いかを教えている。

 主イエスは10:27で「それは人には出来ないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」と言う。聖書は、主を信じるなら、私達はどんな限界でも超えられると教える。しかしそれには条件があるが、不可能だ、難しいと、殆どの人が諦めざるを得ないような条件ではない。誰にでもできる。主イエスを信じ、神の子となり、神が支配する世界に生きれば良い。それが条件。

 今日の個所では、主イエスと三人の弟子達が山に登っている間に、残された弟子達が難問に直面していた。或る人が悪霊に憑かれた息子を連れて来て、彼らに悪霊を追い出して欲しいと願ったが出来なかった。主の一行が山から下りて来ると、律法学者達が弟子達の無能さは、師であるイエスの無能さの証明だと主張し、弟子達は、自分達に出来なかったが、主には出来ると主張し、論じ合っていた。6章には、彼らが主に悪霊を追い出す権威を主に与えられ、追い出したとある。彼らは何故、ここでは悪霊を追い出せなかったのか。彼らが、自分達を権威ある者と錯覚していたから。全能な主が自分達にその権威を与え、主がさせたから出来たのに、自分がしたから出来たことにだけ心が向き、自分を主の位置に置いてしまった。だから父親に、悪霊の追い出しを頼まれた時、自分達は出来ると思ってその子から悪霊を追い出そうとし、祈り求めずにしたことに気付かなかった。

 28節に「イエスが家に入られると、弟子達がそっと尋ねた。『私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。』するとイエスは言われた。『この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことは出来ない』」と言ったある。私達も困難な状況から抜け出せない時、彼らのように主を信じることの無意味さを人に指摘され、動揺したことはないか。私はこの準備の中で、彼ら自身が、本気で主に出来ると信じ、律法学者達と論じ合っていたのだろうかと考えさせられた。主が19節で弟子達に対し、嘆きと怒りに近い感情を発しているのは、彼らの信仰が上辺だけで、真に主を信じ切っていないのを見抜いたからではないかと考えた。

 勿論彼らにしても、主が与えた神の権威により、この子から出て行けと悪霊に命じた筈。しかし、自分達に出来る筈との思いが先に立った時、その権威を与えた神に祈り求め、神にして頂く信仰が抜け落ちてしまった。だからイエスは「不信仰な時代だ。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」と嘆いた。

 彼らは主を信じ、主の弟子として「悔い改めて福音を信じよ」と人々を教える主の手伝いをし「人々が悔い改めるよう宣べ伝え、悪霊を追い出し、油を塗って病人を癒した」(6:12)。その時、彼らが悪霊を追い出せると信じ、自分達が悪霊に命じて追い出したのは確か。でも追い出したのは神。神を信じ、祈り求める人の願いに応えて神が悪霊を追い出すことを忘れてはいけなかった。彼らは先ず神に祈り求めることを忘れた。主は、自分がどうにもならない事態に直面する時、神に不可能はないと信じよと教える。主を信じよう。そうすると希望と祈りが私達の心に生まれる。祈りは私達が神と繋がる為のパイプ。祈りにより、私達の思いが神に届き、神が願いを実現する。私達は神が支配するその世界にいるのだから。